新藤透「『新羅之記録』書誌解題稿」メモ

新藤透「『新羅之記録』書誌解題稿」(情報メディア研究 3(1) 2005.3 p.1~10)に係るメモ。

『新羅之記録』原本

『新羅之記録』写本

函館市中央図書館所蔵本

  • 請求記号K 08 マツ 6003、資料番号1810651826

  • 請求記号K 08 カキ 5072、資料番号1810667202

    • 慶応2年に戸切地陣屋にて蠣崎伴茂によって写されたものとされる。
  • 請求記号K 08 マツ 6001、資料番号1810646453

  • 請求記号K 08 マツ 6002、資料番号1810646446

  • 上巻(請求記号K 08 マツ 6004、資料番号1810651800)、下巻(請求記号K 08 マツ 6004、資料番号1810651818)

    • 「原本を忠実に復元していると評価されて」(p.4)おり、函館市中央図書館デジタル資料館でも公開されている。

    • 上巻2019-07-14(Sun) 23:30:30 アクセス

    • 下巻2019-07-14(Sun) 23:31:03 アクセス

北海道立文書館所蔵本

北海道博物館所蔵本

北海道立図書館北方資料室所蔵本

  • 資料番号1102195789

市立小樽図書館所蔵本

  • 請求記号H/210.0/マ/、資料コード1110262498

國學院大學図書館所属本

  • 『松前国記録』と題された写本を所蔵しているとのことだが、國學院大學図書館のOPAC検索ではヒットしなかった。

東京大学史料編纂所所蔵

  • 書目ID 00055096、請求記号 2075-1260

  • 画像一覧2019-07-17(Wed) 22:59:46 アクセス

東京大学附属総合図書館所蔵本

  • 著作ID 4052613

  • 「本書は『新羅之記録』の写本の中でも最も原本からは相違する箇所が多い写本である。」(p.6)

横浜松前家所蔵本

『新羅之記録』の翻刻本

市立函館図書館(1937)『新羅之記録』

北海道編(1969)『新北海道史 第7巻史料1』所収『新羅之記録』 p.5-81


寛文7年頃作とされるゑぞの絵図に記されている上磯地域

 函館市中央図書館デジタル資料館で公開されているゑぞの絵図は、寛文7年頃の作とされており、西暦だと1667年年頃となる。

 「亀田」と「キコ内」の間に「トウヘチ」「モヘチ」が見える。また、折り目で欠けているが「ヘケ」とあるのは「ヘケレチ」と推測される。

ゑぞの絵図

出展: 函館市中央図書館デジタル資料館>ゑぞの絵図


寛永正保頃とされる松前蝦夷図に記されている上磯地域

 函館市中央図書館デジタル資料館で公開されている松前蝦夷図は、寛永正保頃とされており、西暦だと1624年から1648年頃となる。

 上磯のあたりに「ヘケツレチ」「川モヘチ」「トウヘチ」と記されているのが見える。言わずもがな「ヘケツレチ」は、「ヘケッレチ」つまり「ヘキリチ(戸切地)」であり、「トウヘチ」は「トウベツ(当別)」であり、頭に「川」が付いているが「モヘチ」は「茂辺地」である。

松前蝦夷図

出展: 函館市中央図書館デジタル資料館>松前蝦夷図 寛永正保頃


北斗市清川の旧神山繁樹邸

 北斗市清川に残る旧神山繁樹邸は、明治29(1896)年に建てられたもので、洋風の外観と伝統的な間取りという当時流行した建築様式を今に伝えている。
 神山繁樹は、函館の郷土史家である神山茂の祖父にあたる人物で、嘉永2(1849)年に会津で生まれ、明治4(1871)年函館にやってきた。函館で牛肉店、ホテル、洋食店などを営み実業家としての成功を収めたのち、明治25(1892)年に清川村に移り住む。
 清川村でも多くの小作人を抱える開拓農場主として活躍したほか、沖川小学校や清川寺の改築にも尽力し、昭和9(1934)年、87歳でこの世を去った。

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

旧神山繁樹邸

※2019年6月2日撮影。

場所

神山繁樹について

澤石太編『開道五十年記念北海道』の「神山茂樹」の項によれば、神山繁樹は、嘉永2(1849)年6月2日会津に生まれ、明治4(1871)年7月に函館に渡る。その後、南部(現岩手)から函館に肉牛を輸入し、会所町にて牛肉店を開いた。明治14(1881)年(『開道五十年記念北海道』には明治44年と記載されているが、おそらく明治14年の誤り。)大黒町にホテル、西洋料理店を新築するが、明治18(1885)年にはその経営を使用人磯村義廉に譲渡し、明治25(1892)年、清川村に転居したとされる。

なお、澤石太編(1985)『開道五十年記念北海道』鴻文社(復刻版 復刻版の背の書名:北海道開拓五十年史 元出版年:大正10年。)p.242-243「神山茂樹」の項の記載は以下のとおりであった(漢字は、一部新字体等に置換した。)。

○数奇なる運命に駕して成功したる本道拓殖功労者
渡島国上磯郡上磯村
神山茂樹
翁の一代を叙するに殆んど其半ばは数奇なる運命に捕はれ、潑溂たる壮年の勇気は萬軍を叱咤し幾萬の貔貅を恐れず勇往邁進修羅の巷に其の勁勇武力を誇るの時代あり、失脚幾回か倒れ失望落膽其の不遇に泣くの時あり、遂に最後の優勝者として其成功を以て終結す翁の一代は将に人生成功の活ける好教訓たり、神山家は遠く天正年間の疇昔より会津藩に仕へて累代御徒士目付役を勤む 其末裔を周蔵と称す、乃ち翁の厳父たり、茂樹翁は嘉永二年六月二日を以て会津の神山邸に於て呱々の声を挙ぐ資性豪宕不覇弱冠にして武を好み、年少小野派一刀流の達人塚田孝平に師事して武道を錬磨す技頗る巧達術亦た妙諦の域に達す、闔藩の儕輩咸な翁を畏敬す、或年乃父に請うて銘刀一振を得む事を以てす、乃父其志を壮とし快諾直ちに時の名工会津藩の住人道守に命じて二尺三寸の一刀を精作せしめて翁に与ふ、干時元治元年八月なりき、翁之を享け欣躍措く所を知らず、異日必らず君父の洪恩に報ひ邦家の為めに微力を献げ、家を興し名を成す必らず斯刀に如かずと、常に好侶として座右を離さず、偶々戊辰の役起るに逢ふや好機逸すべからず、奮然蹶起して宇都宮、日光、巳壬の激戦に馳せ参じ、屢々修羅の巷に馳駆して幾度か瀕死の危殆に陥りし事あり、然れども常に斯愛刀の為めに勇気百倍千蓰勁敵を倒し首級を得る事恰も根茎を断つが如く、戦毎に危殆を逭れ而も殊功偉勲を奏する事屢次たり、寔に愛刀の神霊畏敬に勝へず、後ち戦平定して廿八萬石の会津藩は減封せられ、南部、三戸 大澗に於て僅に三萬石を賜ふ 藩主松下肥後守は隠居を命ぜられ嫡子慶三郎を以て継嗣と為し藩士を挙げて田南部に遷移せしむ、旧臣上下の別なく面扶持二合五勺を賜ふ、於是藩臣皆衣食の途に窮して土着帰農する者多し、翁此の時年齢廿四志を樹て意を決して郷土を辞し藩友佐川正と倶に蝦夷に航し函館に上陸す、干時明治四年七月なりき、此時路金七金を余すのみ、頼るに人なく、起すに資なく、已むなく素志を飜して将に帰国せむと決す、或日弁天町の飲食店竹柴屋に到りて牛肉数片を命じて食す、食後其料を問はヾ二歩なりと謂ふ、其価格の頗る高貴にして当時落魄失意の一寒生として驚異悔悟に堪へず、於是翁釈然大いに嬉んで曰ふ、爰に高貴なる肉料を払ふて却て大なる 益を得たりと、倉皇南部に到り生牛一頭を一円五十銭を以て購ひ之を函館に輸送して販売せば忽ち巨利を獲べしと、牛を曳て青森の下北郡下風呂の沿岸に到り将に帆船を待って函館に航せんとす、船体狭少にして生牛を搭載する克はず、船夫拒んで之に応ぜず、翁一策を案じ山間に牛を曳いて到り之を撲殺せむとして一撃を加ふ、牛は斃れずして却て狂暴奔逸す、翁大いに其惜為に苦しみ辛ふじて膂力之を拉殺し切断五六に分ち、柳行李に入れて遂に之を函館に輸送す、東奔西馳一軒の店舗を借入れ将に之を鬻で巨利を博せむとす、行李を解きて之を店頭に駢列す、異様の臭気は紛々として鼻を衝いて堪ふる事能はず、翁恠みて之を検するに炎熱赫々の間数日行李中の肉は悉く腐爛し了せり、翁の失望極点に達し瞬間の得意倏ち落膽の淵に陥り、其当時の困憊窮状名状すべからず、翁は歔欹嗚咽して血涙滂沱其善後の策を講ず、偶々親属淺井清一なる人開拓使少主典として函館に赴任するに邂逅す、愬ふるに実を以てし其急を済はむ事を請ふ、淺井少主典翁に誨ふるに艱難は無気力の人を驚嚇するも勇壮果断の人に対しては有益無二の良刺衝たり、汝宜く勇壮果断の人たれと翁に廿金を與ふ、斯の訓誨は千金に優るの資本なりと翁大いに喜び、廿金を携へて再び南部に到り生牛七頭を購ふて之を函館に輸入し、会所町に於て家屋を借入れ盛んに牛肉店を開始せり、爾来盛に生牛の輸入を謀り低価を以て一般に販売するに至れるを以て、牛肉の需用日に月に加はり盛んに函館に於て屠牛を開始す、乃ち函館屠牛業の濫觴なり、斯くして満腔の熱心を以て其業に励み健闘爰に十年一日の如く、産年と共に加はり、家業益々隆昌に赴くや業務の拡張発展を企画し、同四十四年(※十四年の誤りか?)に至り大黒町に壮大華麗なる洋館を新築し、爰に函館全市を飾るべき大ホテル、西洋料理店を開き、傍ら英、露、仏諸国の東洋艦隊の食料品売込みを請負ふ、時の函館県令時任為基翁の為人を愛して眷顧頗る敦し、翁感奮益々其業に精励するに至り業層々栄へ、収むる所の利純巨額に及んで産大いに成るや、子孫百年の計を策し、上磯郡清川方面其他に農耕地数百町歩を購入せり、同十八年に至りホテル及西洋料理店の営業全部を使用人磯村義廉に譲渡せり、時恰も亀田に於て第五聯隊の設置あり、大倉組より御用達代理店を嘱託せられ、同廿五年同隊の廃止と共に之を廃業せり、其年挙家清川村の農場所在地へ転居し爾来開墾耕耘に従事し、自から犁鋤の労働を事とし農産品の改良を謀り、地方産業の発達に努力し、拓く処の田数百町歩に及ぶ、曾て村惣代、村会議員、農事員、学務委員、徴兵参事員等の公職に挙げられ、曾て沖川小学校舎改築の挙あるや、工事監督の任に膺り此間自家の業を顧みず、而も私財を投じて匠工を慰藉督励して其工を速かならしめ、工竢りて落成の式典を挙るや一切の費用を自弁支出し、私費を抛て校舎の周囲に数百本の落葉松を植栽し、以て風致を添へ防風に便す、職員の優遇に意を濺ぎ私財を捐する事少からず、殊に敬神の念深く仏教の帰依厚く浄財の寄捨を吝まず、又は村有財産の基金造成に意を注ぎ多年の努力空しからず、今や其の額八百有余円に達す、又大正二年凶歉に際し部落窮民の救済に尽瘁せる功労不少廉を以て銀杯一個授与表彰せられ、其他木杯感状を授与せられし事枚挙に遑あらず、明治七年郷里より実母マサ子を迎へ孝道を怠らず至孝の名高く、明治卅五年八月卅一日マサ子刀自享年七十四歳を以て永眠するや、清川村の廣徳寺中に厚く葬りて展墓を怠らず、翁や明治四年徒手空拳蝦夷に航し、函館に■(※足へんに主)爾来千辛万苦備さに百難を排し、艱難に克ち一時卑賤の業に躬を窶し、奮闘茲に五十年曾て初志を挫かず、実践躬行終始一貫して本道拓殖の大業を進めて邦家の為めに微力を効し、業成り名遂げ、今や上磯町有川河の流清き有川橋畔風光明媚なる、近く臥牛の山容は嬉ふて翁の健在を邀へ、邈洋として遠く陸奥の諸山連峰は、翁の成功を祝福して羨望の媚を呈すべき、山水景勝の地を相して邸墅を建設し、斯の楽園に風月を友とし優悠自適七十五歳の高齢を以て钁鑠尚壮者を凌ぐの慨あり、現に農耕地数百町歩に小作人五十戸を収容し、農業経営の傍ら造林事業を奨励し、翁自から壮丁を督して其業を廃さヾる事旧の如く、其精力の絶倫意志の堅実なる後人の師表とすべく、嗣子豊吉職を法衙に奉じて令名あり、愛婿分家神山雄次郎は樺太に於て鰊建網漁業を経営して盛名あり 愛孫十一人ありて一家一門の繁栄する亦以て翁が五十年健闘の賜たりと云ふべし。

参考

  • 川島智生『明治中期の北海道における開拓農場主住宅について—函館近郊上磯町の旧神山繁樹邸からみえてくること—』「神戸女学院大学論集57巻1号(2010)」p.27-45
     この論文のなかで著者は、旧神山繁樹邸が明治5年に札幌で建設された通称「ガラス邸」と呼ばれた開拓使官舎をモデルにしていた可能性があると述べている。
     なお、以下気になった点を挙げる。

    • 1章の「4節. 和洋折衷の棲み分け」(p.31)冒頭の「ほぼ近接した面積を示す。」は和室のことか?
    • 「3章. 上磯郡清川村」の冒頭(p.40)、「平成17年(2005)年に北斗市となった」とあるのは「平成18年(2006)年に北斗市となった」の誤り。
    • 4章の「2節. 清川村へ」中(p.42)「明治18(1895)年に、神山繁樹は函館を去り、清川村に移住する。47歳の時である。」とあるが明治18年であれば1885年であり、まだ36〜37歳の頃となる。
    • 結語の1)(p.43)中「現北杜市」とあるのは「現北斗市」の誤り。

古本のおまけ

古本のおまけ

 今日、『道程(みちのり)—上磯町史写真集—』(上磯町、昭和57年)が古本屋から届いた。包装されていたビニール袋は、森文化堂のもので、桔梗店と並んで上磯店の記載がある。色もめずらしく赤肉メロンのような色の袋だった。森文上磯店の住所は現在のトライアル、当時のカウボーイで、小生、その頃は函館に来たばかりの学生だったため、森文があったことはまったく知らなかった。



傷心惨目の碑

傷心惨目の碑

  • 2019年4月13日訪問。

説明板

傷心惨目の碑

傷心惨目の碑
明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり、旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。
明治12(1879)年高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、惨殺された藩士を供養した。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。
函館市

MEMORIAL OF “SHOSHIN ZAMMOKU”
On May 11, 1869(Meiji 2) the fiercest battle of Hakodate War was fought in downtown Hakodate. At that time Koryuji Temple was located at the foot of the slope where it stands now and it was used as a branch of Hakodate Hospital for deserted soldiers of the old Shogunate army.
On this day spearhead force of the new government’s army burst into the temple and killed the sick and wounded in bed, then set fire to the temple. The Aizu clan forces which fought against the new government paid dearly in human cost in this battle.
In 1879 (Meiji 12) Koryji Temple was moved to its present location and the following year the supporters of the Aizu clan erected this monument in memory of those who were murdered in this attack.
The Chinese characters on the monument read, “Shoshin Zammoku” or “mourning an ancient battlefield.” These are the words of Rika, a Chinese literary man of the Tang period (618-906). The characters were traced over the genuine writing of Gakuhi, a faithful retainer of Southern Sung(1127-1278), China.
CITY OF HAKODATE

場所


高龍寺蔵 蠣崎波響筆 釈迦涅槃図

釈迦涅槃図

高龍寺宝の蠣崎波響筆釈迦涅槃図。毎年4/1〜4/15まで一般公開されます。かなり見応えがあります。

2019年4月13日訪問。

以下、キャプションより。

釈迦涅槃図(北海道指定有形文化財)蠣崎波響筆
涅槃図では珍しく双幅の形式をとっており、一切の煩悩から解脱し入滅する釈迦とそれを見取り悲しむ僧侶や貴人、俗人に至るまでの人々、さらに動物から植物にいたる森羅万象がその安心立命を思うさまを描き、右側には多分の余裕を持たせながら、構図の拡がりを効果的に利用している。動物は多種が描かれ、トラやサル、ウサギなどは応挙風に描かれ、ミミズ・カタツムリ・トンボ・カマキリ・ホタルなど、小さな生き物への愛情さえ感じさせる描写もある。多種多様の鳥の毛や羽の描き方などは博物図譜を思わせ、当時の博物学(自然誌)の隆盛が波響の釈迦涅槃図に大きく影響していることがわかる。通常、東西南北2本ずつ合わせて8本描かれる沙羅双樹の木が11本となっていることは異例である。
波響はこの年48歳、松前の復領や肺患に悩みながら生涯に残すべく、彼の持つ総力を結集したものである。
この絵の款記には次のように記されている。
時文化辛未秋九月為松前函館奥山高龍寺十一世禅海上人
蠣崎源廣年斉沐
拝手写於波響樓
※當山では、毎年涅槃会法要にあわせ、4月1日〜15日まで釈迦涅槃図を一般公開しています。

蠣崎波響(1764〜1826)<本名—廣年>
松前藩第7代藩主資廣の5男として生まれ、翌年、家老蠣崎家の養子となる。幼少期は江戸で過ごし南蘋派の建部綾足に学び、のちに宋紫石について画風を学ぶ。18歳になった波響は、松前に戻り家老見習いとして藩政に携わる一方、大原呑響や円山応挙に師事し画風を南蘋派から円山派に大きく変化させた。
1807(文化4)年、幕府は松前藩を格下げし、奥州梁川(現在の福島県)へと移封することになった。この懲罰的移封は藩主で波響の兄にあたる道廣(第8代)の豪慢と当時懸案化してきた北方問題にあったと云われている。
44歳となり家老として藩政の中枢を担っていた波響は、梁川移封後も松前への復領に心血を注いでいた。こうした状況の中、文化8年、交友のあった高龍寺11世華重禅海住職の頼みであった釈迦涅槃図を制作する為函館に渡る。この時の波響は、家老の職にあったとは思えないほど精力的に絵を描き続け、次々と名品を生み出し画人として最も円熟した時期であった。1821(文政4)年、復領し松前に戻った波響は家老の職を退き1826(文政9)年、63年の人生に幕を閉じた。
波響のその他の作品は、クナシリ・メナシの蜂起で松前藩に協力したアイヌの首長を描いた「夷酋列像」が代表作として知られている。
<當山では釈迦涅槃図の他に四時競色図・羅漢図・鶴亀図を所蔵>