史跡松前藩戸切地陣屋跡

史跡松前藩戸切地陣屋跡(2008年7月21日撮影)

松前藩戸切地陣屋図面(2008年7月21日撮影)

案内板に記載の内容は以下のとおり。

史跡松前藩戸切地陣屋跡
 この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。
 構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており6つの砲座があります。
 郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払っています。
 この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。

位置

参考

  • 森 靖裕(2004)「史跡等の整備と活用–史跡松前藩戸切地陣屋跡 幕末蝦夷地にみる西欧式城郭跡」『月刊文化財 / 文化庁文化財部 監修』 (487) 2004.4 p.52~55
  • 上磯町教育委員会(1965)『松前藩戸切地陣屋跡 : 国指定史跡』
  • 上磯町教育委員会(1981)『史跡松前藩戸切地陣屋跡郭内遺構概要確認調査報告』
  • 北海道埋蔵文化財センター(1982)『史跡松前藩戸切地陣屋跡』上磯町教育委員会
  • 上磯町教育委員会(2002)『史跡松前藩戸切地(へきりち)陣屋跡 : 環境整備事業報告書』

高田屋嘉兵衛銅像

高田屋嘉兵衛銅像(2008年7月21日撮影)

函館の発展に多大な貢献をした高田屋嘉兵衛の銅像。司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公としても知られる。

函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。

高田屋嘉兵衛銅像
 この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
 嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
 さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
函館市
THE STATUE OF TAKADAYA KAHEI
 This statue was built in 1958 in commemoration of the 100th anniversary of Hakodate Port’s opening and also in honor of Kahei’s achievements. It was made by the sculptor Yanagawa Goichi who was a native of Hakodate.
 Kahei was born on Awaji Island in 1769 and came to Hakodate at the age of 28, He made great contributions to the initial development of Hakodate and returned to his hometown in 1818. He managed a shipbuilding and marine transportation business along with a fishery here in Hakodate and he developed the ocean lanes and fisheries in both Kunashiri and Etorohu Islands.
 He is also famous as the mediator of the Golovnin Incident, a Russo-Japanese international conflict, in spite of the fact that he was a civilian. This statue depicts him at the scene of Golovnin’s being handed over to the captain of the Russian warship Diana in 1813. He is in a traditional Japanese full dress of a hakama, white tabi, straw sandals and a sword. In his right hand he is carrying an admonition of the Matsumae magistrate and in his left hand he is holding the everyday cloths which he had changed from in the warship.
CITY OF HAKODATE

護国神社坂

護国神社坂(2008年7月21日撮影)

護国神社坂。正面は、護国神社。坂の案内板の内容は以下のとおり。

護国神社坂(ごこくじんじゃざか)
 別名「汐見坂」ともいい、昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ、その町名からとったもの。招魂社の坂は明治2年(1869年)に建立された招魂社(現護国神社)に登る坂ということから呼ばれ、現在の名になった。倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって “かまど” がつぶれるといわれ,昔は門を坂に面しないようにした。
GOKOKUJINJA ZAKA SLOPE
 Another name for this slope is “Shiomi Zaka.” In days gone by this slope was called “Shokonsha no Saka” and “Tosan Zaka.” It was once named “Shiomi Zaka” because the area at the upper part of this slope is called Shiomi cho. It was also once called “Shokonsha no Saka” because at the top of this slope is a shrine Shokonsha (now called “Gokoku Jinja, or a shrine for the war dead”) which was established in 1869. “Tosan (bankruptcy) Zaka” came from the saying that if anyone erected a gate facing this slope, he would be destined to go bankrupt because of God’s punishment. Therefore, people tried to observe this tradition. CITY OF HAKODATE

函館山

函館山とロープウェイ(2008年7月21日撮影)

函館山(2008年7月21日撮影)

函館山ロープウェイ(2008年7月21日撮影)

函館山の頂上に設置されている観光標識の内容は以下のとおり。

函館山
 函館山は、幾たびもの火山活動により海中に隆起した孤島であったが、約3000年位前に、海水により港側と外海側から次第に砂が堆積されて砂州ができ、函館山は渡島半島と陸続きになった。函館の中心街はこの砂州の上にある。
 函館山の地質は、約2500万年前に噴出した安山岩で、五稜郭や弁天台場などの工事にこの山の石を用いた。
 函館山の最高峰は、ここ御殿山で標高334mあり、このほか、薬師山、観音山、千畳敷、鞍掛山などがあるが、この山の形が牛の臥している姿に似ているので、別名臥牛山とも呼ばれている。
 山頂からは、扇状にひろがる市街地、遠く駒ケ岳、汐首岬も望まれ、晴れた日は、本州の下北半島も見られるが、特に市街地の夜景は世界一といわれる美しさである。
 函館山の右手、西端には、異郷の地で永遠に眠る外国人の墓、外人墓地があり、左手、東端には薄幸の詩人石川啄木とその一族が眠る立待岬があるほか、山麓には数多くの名所、旧跡が散在している。
 展望台壁面には、寛政12年(1800年)5月28日、伊能忠敬が北海道最初に測量したことを記念したレリーフがあり、また、前方の広場には、ブラキストンラインで有名なブラキストンの記念碑もあるなど、学術的にも貴重な山である。
函館市
MT. HAKODATE
 Mt.Hakodate used to be a protuberant isolated island in the sea after many volcanic activities. About 3,000 years ago sand got accumlated gradually from the port side and the open sea. That then grew to be a sand bar.Mt Hakodate was connected by this sand bar to the Oshima Peninsula.
 The nature of the soil in Mt. Hakodate is andesite which erupted about 25,000,000 years ago. When Goryokaku and the Benten Fort were constructed, stones from Mt. Hakodate were used.
 The top of Mt. Hakodate called Mt. Goten is 334 meters above sea level. As the shape of Mt. Hakodate together with Mt. Yakushi, Mt. Kannon Mt. Kurakake, and Senjojiki looks like a lying cow, iti is calledgagyuzan meaning Mt. lying cow. From the top of the mountain one can see the wonderful sight of a fan-shaped city. Also from the top of the mountain, on a clear day, one can see Mt. Komagatake, the Shiokubi cape, and the shimokita Peninsular of the main island. The night view looking from Mt. Hakodate is notably remembered as one of the most fantastic views in the world. At the foot of the mountain there are many noted places and historic spots such as a foreign cemetery to the west, on the right of Mt. Hakodate, and the Tachimachi cape to the east on the left of Mt. Hakodate.
 On the Tachimachi cape there is a tombstone for an ill-fated poet, Takuboku,and his family. A wall relief for the memory of Tadataka Inou’s first measuring in Hokkaido in 1800 is on the surface of a wall in the observatory deck. In the square in front there is a monument of Blakiston who is famous for the Blakiston line. Scientifically, too, this mountain is significas.
津経要塞跡
 明治30(1897)年、函館山で要塞工事が始まり、32年11月函館要塞として完成したが、昭和2(1927)年4月に津軽要塞と改称された。敷地は保安林も含め御殿山、薬師山、千畳敷、谷地頭付近の約16万坪が陸軍省の所管となり、昭和21(1946)年5月の開放までは、一般市民の立入りはもちろん、写生、撮影ならびに測量などが一切禁止された。
 現在も函館山の各所に地下壕跡などが残されている。
函館山の植物
 函館山は、その山容が標高わずか334m、周囲約9kmの小さい山でありながら、地形が複雑多岐であり、植物の生育環境が多様であることから、植物種は極めて多く、北方系と南方系が混生しており、その数は600種余りと言われ、まさに自然が造りあげた植物園である。
 白然林もさることながら、箱館奉行や開拓使によって植林されたスギやマツの群生が見られる。また、道路沿いや裸地に自立つセイヨウタンポポなどは、明治初期に移入されたものであるが、このような帰化植物は30数種類あると言われている。
 これらの豊富な植物は、要塞が築かれてから50年近くも入山禁止となったために自然が守られ、保護された結果であろう。
 ここはまた鳥類の楽園としても知られている。
 津軽海峡が動物分布上の境界線をなすことを発見した、英国人ブラキストンは、函館山の鳥類を調べてこの境界線(ブラキストンライン)を発表した。現在、留鳥と渡り鳥を合わせて約150種が見られる。
函館市
TSUGARU FORT AND THE PLANTS FOUND ON MT. HAKODATE
REMAINS OF TSUGARU FORT
 In 1897 construction of Hakodate Fort started on Mt. Hakodate and it was completed in November 1899. In April 1927 it was renamed Tsugaru Fort.
 The whole site of about 160,000 tsubo ( 632,320 square yards) including the forest reserve, Gotenyama, Yakushiyama, Senjojiki and Yachigashira was under the jurisdiction of the Ministry of War until May 1946. Until then not only was it forbidden for citizens to enter the mountain area, but sketching, taking photographs and surveying were also strictly forbidden. Even today some underground shelters still remain.
THE PLANTS ON MT. HAKODATE
 Mt. Hakodate, only 334 meters above sea level and about 9 kilometers in circumference, has a complicated and divergent topography. Over 600 species of plants grow here, including plants which can be found in both northern and southern parts of Japan.
 This whole mountain can be called a huge natural botanical garden. Here can be found gregarious Japanese cedars and pjne trees, which were planted by Hakodate Bugyo ( commissioner ) and the Kaitakushi ( Hokkaido Colonization Bureau ).
 Common dandelions along the road side and on the uncultivated lands are thought to have entered Japan from abroad in the early days of the Meijj period.
 It is said that about thirty various plants among them were naturalized in Japan.
 These plants grew untouched because the military prohibited people from entering the area for nearly 50 years after the construction of the Fort.
 Mt. Hakodate is also known as a paradise for birds. Thomas W. Blakiston who came from England, researched the birds on Mt. Hakodate and discovered the geographical distribution of animals ( now called the Blakiston Line ).
 This line is drawn along the Tsugaru Straits.
 At present there are about 150 species of both resident and migratory birds.
CITY OF HAKODATE

函館大火慰霊堂と慰霊塔

函館大火慰霊堂は、大森公園内に昭和13(1938)年に完成。昭和9年の函館大火の際、この慰霊堂の横を流れる亀田川において多くの凍死者、溺死者を出している。

昭和9年函館大火の詳細は、昭和12年に刊行された『函館大火災害誌』に詳しい。同書は、国立国会図書館デジタルコレクションにて全文公開されている。

函館大火慰霊堂(2008年7月6日撮影)

函館大火慰霊堂〜正面(2008年7月6日撮影)

函館大火慰霊堂〜正面斜め(2008年7月6日撮影)

記念塔、慰霊塔、慰霊堂(2008年7月6日撮影)

函館大火慰霊塔(2008年7月6日撮影)

函館大火慰霊塔〜下から(2008年7月6日撮影)

記念塔の板碑に刻まれている内容は以下のとおり。

函館大火災惨害記念塔建立由来
 「昭和9年(1934年)3月21日夕刻に住吉町より発生した火災は、史上稀にみる烈風に煽られ市街地は一夜にして焼土と化し、その罹災者は約10万2千人を数える大惨事となり、死者行方不明者は2千8百28人を数えるに至った。
 折悪しく、市街地を縦断する新川(亀田川)に掛かる、此処「大森橋」は渦巻き吹き上げ迫る猛火に逃げ惑い追われる人々が、唯一の避難路として殺到する中、その橋も瞬く間に炎焼し身動きとれぬ人々は、寒波厳しい横殴りの風雪を伴って、荒れ狂う浜風で怒濤逆巻く川に投げ出され高潮に呑まれるなどの惨状を呈し、一夜明けたこの川辺一帯は、溺死凍死焼死者が折り重なっての、悲惨壮絶を極めた受難の地と化していた。
 この受難者の霊を慰め祀らんと、慰霊堂建設の計画が立てられ昭和12年(1937年)5月、市はその基礎工事に着手した。
 この慰霊堂の建設に呼応し、在市の宮本武之助(函館商工会議所副会頭)は、慰霊堂と一対をなす、「五重の塔」(慰霊塔)の付設建立寄進を申し出、その許しのもと自らも私財を供し、宗教団体(京都を本拠に慰霊活動をする「弘安海」)の大きな協力を得るなどの奔走の中、この五重の塔の完成をみた。
 因みに、この塔の材質は花崗岩を選び、京都の嵯峨・大覚寺に納められんとした由緒や、その秀れた石組みの技法など貴重にして高いものがあると云われ、船により運ばれ此の地において組立てられ建立を見たものである。
 塔の最上五層の中軸柱の頂部中心には、水晶の珠を捧げ持つ精巧な青銅の龍神の彫像が祀られ、又、地下の基礎には全国から寄せられた叺(かます)が49俵の「写経石」がコンクリートと共に練り込み納められ、その安らかなる霊への哀悼が深くこめられ塔を支えている。
 又、本堂たる慰霊堂はその基礎工事に着手はしたものの建築材料の暴騰によりその財源捻出に苦慮する中、思わぬ建設計画の遅れに悩む坂本森一市長に協力しこれにも宮本武之助は、その円滑なる事業の完成にと篤志の寄附を、自らの倹約励行をもって申し出るなど、慰霊堂の建設(総事業費約11万4千円)に大きな貢献をなしている。
 かくして昭和13年(1938年)10月8日、本堂を埋める多くの人々の参列のもと、入仏落慶式がいとも厳粛な中、盛大に挙行され無事その完成をみたのである。」
あまたの御霊安らかにましませ
 この記念塔建立由来板は、本塔の建立に多大な貢献をされた故宮本武之助氏長男である宮本徹也・靖子御夫妻が作製され、本市に寄贈されたものです。
平成13年(2001年) 函館市

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