松前天保凶荒録

松前天保凶荒録p.17/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (17 / 49 ページ)

天外ノ宝庫ト望ミ村民ノ飢餓当ニ旦夕ニ迫ラ
ントス其苦難タル実ニ名状スベカラザルニ至
レリ此ニ於テ各自営ム処ノ業ヲ棄テ唯食物ヲ
求ムルニ汲々タリ然ルニ当地方ハ幸ニ海ニ面
シ山ヲ負フ故ニ海ニ入テハ昆布「ヒジキ」等ノ海
藻ヲ獲シ山野ニ出テハ「ウバユリ」蕨ノ根ヲ採リ
以テ生命ヲ全フスルニ至レリ就中昆布ハ最モ
多量ノ天産ニシテ是ヲ製シテ「オシメ」ト称ヘ豫
テ凶荒ニ備ヘシカ当時大ニ効用シ時ノ藩主松
前氏大ニ之ヲ賞賛シ盛ニ之ヲ製セシメ部下ノ
庶民ニ分與セラル又耕作ニ至テハ馬鈴薯能ク
豊熟シ村民ノ生命ハ之レニ依テ得シト思ハル
ル程ナリ右ノ品類ハ当地方ノ風土気候ニ最適

ノモノニテ他道人民ノ羨ム処アラン故ニ天保
四五年ノ頃ヨリ南部津軽ノ人民隣村当別ヘ渡
航シ其何地ヘ行ヤ知ラス雖トモ当村ヲ通行ス
ルモノ幾百人ナルヲ知ラス是皆該地方ノ飢民
ニシテ当道ノ天富ヲ傳聞キ生命ヲ保タンカ為
メニ来ルモノト云フ依之熟考スルニ村民ノ困
難セシハ決シテ僅少ノコトニアラスト雖トモ奥羽
地方ノ惨状ノ如キハ当村民ノ感知セサル処ナ
ラン此凶荒ハ天保四年ニ始リ其後内地ノ消息
ニ依テ少シク安ンセシモ七八両年ニ至リ前ニ
倍スルノ凶歎ノ余響ヲ被リ其安全ニ帰セシハ
実ニ天保十年ニシテ被害殆ント七年ノ永キニ
亘レリト

松前天保凶荒録p.18/49
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 「オシメ」昆布ノ義官報第百七拾七号ニハ天保
 年間ニ昉リタルモノノ如シ云々ト有之然ルニ
 此調書ニ「オシメ」ト称ヘ豫テ凶荒ニ備ヘシカ
 当時大ニ効用アリ時ノ藩主云々記載アルニ付
 其製造ヲ発明セシモノノ氏名及該昆布ノ濫
 觴旧記若シクハ古老ノ口碑等詳細ノコトヲ質
 問セシニ左ノ回報アリ因テ此ニ併記ス
「オシメ」昆布ノ天保ノ凶年ニ際シ効ヲ当道ニ傳
セシハ既ニ世人ノ知ル処ナリ然レトモコレカ製
方ヲ発明セシ者及何年ノ頃何地ニ於テ始メテ
行レシヤ探知シガタシ想フニ土人ノ製ニ始リ
シヲ漸次改良シタルモノナラン官報第百七拾
七号
ニ拠レハ該昆布ノ食料ニ供セシハ天保年

中ニ昉リタルモノノ如シトアレトモ決シテ然ラ
ス只此際ニ最モ効ヲ著シタルモノナリ今現ニ
八拾歳ノ老人ニシテ其小児タリシトキ之ヲ食セ
シコトアリ往時ハ航運完カラスシテ米穀為メニ
貴ク常ニ食スルニ難シ依テ其幾分ヲ「オシメ」ニ
テ補ヒ只々凶荒ヲ救フニノミ止マラサリシナ
リト此言固トニ信スヘキモノナリ
又同官報ニ之ヲ発明セシハ天保ノ凶年ニ際シ
箱館町會所ノ吏員等百方商議ノ上ナリトアレ
トモ上ニ述ルカ如クニシテ此説信シガタシ此時
ニ当テ町會所ハ藩庁ノ一課局ノ如シ藩庁ヨリ
庶民ニ諭シテ曰ク今ヤ凶荒ノ災ニ罹レリ宜ク
「オシメ」ノ製造ヲ勉メヨト今ニ古老ノ記憶スル

松前天保凶荒録p.19/49
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処ニシテ当時藩吏等特ニ之カ製造及儲蓄方ヲ
勧奨セシモノナラン其製造方法ノ如キハ官報
ニ詳記アルヲ以テ之ヲ贅セス

   同郡石別釜谷両村
天保年間ノ飢饉モ現時ノ景況ヲ記シタル書類
ナシ只当時其難ニ遭遇セシ老人ノ説ニ拠レハ
天保四 巳 年内地諸国凶作ニテ衆庶困難飢ヲ呼
フノ歎声止マサルトハ春ノ頃ヨリ傳聞スレトモ
当地方ニハ未タ其影響ヲ及ボサス且人民モ更
ニ意トセス既ニシテ同年六月ニ至リ漸々地方
ニ波及シ米穀ハ俄然騰貴シ玄米壱俵(四斗入)金三両

二分ニ至リ細民ノ如キハ日々飯米ニ苦ムノ場
合トナレリ然レトモ米穀売買ノ途絶ヘサルヲ以
テ左マテ焦慮セスタトヘ内地凶作ト雖トモ必ス
輸入米アラントノ豫想ヨリ荏苒日ヲ経過スル
ニ随ヒ米穀ハ日一日缼乏シ同八月ニ至テハ米
穀売買ノ途絶ヘ餓孚旦夕ニ迫ルニ及ンテ驚歎
為ス処ヲ知ラス東走西馳穀ヲ求ムレトモ奈何セ
ン時已に遅ク米商ハ売買ヲ拒絶シ聊カ米穀ヲ
所持スル懇親ノ者ト雖モ自家ノ飯料ニ過キス
一家ノ飢餓ヲ慮リ貸与売買スルモノナク其困
難名状スヘカラス折柄函館ニ旧松前藩廳ノ派
出所アリテ同所ニ於テ飢民老若男女ヲ問ハス
遠近ニ論ナク救米ヲ請求スルモノニハ玄米三

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合宛払下ラルルト聞キ欣然トシテ該地ニ至リ
救米払下ヲ請願シ且遠近ノ(六里余)モノナルヲ以
テ一週日或ハ十日分ノ払下ヲ歎願スレトモ許サ
レス一日分ヅツ各自ニ払下ラレタリ於是救助
米ヲ買ハント欲スレハ挙家日々六里余ノ遠路
ヲ往復セサルヲ得ス之ラ強壮ノ男子ト雖トモ能
ハサル処況ンヤ老幼婦女子ニ於テヤ海路ヲ取
ランカ風雨ノ障碍アリテ日々通航スル能ハス
前日ノ欠ハ只一時ノコトニシテ困難漸次甚シク
座シテ餓死ヲ待ツヨリ外ナキニ至レリ然ルニ
地方山野抵ル処蕨草ノ生セサルナク且此年ハ
海魚ノ多キ例年ノ比ニアラス故ヲ以テ村民等
断然草根及魚類ヲ以テ生命ヲ保持セント決シ

各挙テ蕨ノ根ヲ堀リ澱粉ヲ製シ海魚ヲ漁シ以
テ生命ヲ繋キシニ藩主松前家ヨリ村落戸数ニ
応シ救米ヲ貸与セラル其米ヲ受ケタルハ旧当
別村戸数三十六戸ニテ玄米四拾俵旧三石村戸
数十三戸ニテ同廿俵釜谷村廿四戸ニテ同三拾
俵之ヲ更ニ人口ニ應シテ配分シタルヲ以テ飢
民一時蘇生ノ思ヲナシ各自堀採ノ蕨粉ニ和
シテ食セリ又豆作ノ稍可ナルヲ以テ之ヲ蕨粉
ニ和シ食ニ充ルヲ得タリ然レトモ食塩ノ外ハ味
噌醤油ノナキヲ以テ魚類其他共総テ塩ノミヲ
用タリ冬季ニ至テハ幸ニ積雪薄ク為メニ蕨ノ
根ヲ堀採ルコトヲ得タリト雖トモ各衣食不充分ニ
シテ寒風降雪ヲ冒シテ掘採ニ従事シ洗滌ニ製

松前天保凶荒録p.21/49
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造ニ其労苦艱難現ニ其辛苦ヲ嘗メタルモノニ
アラサレバ神魂ニ徹セサルベシ地方人民餓死
ヲ免ルルヲ得タルハ蕨ノ多キト積雪ノ薄キト
ノ天恵ニ因テナリ同七年申年ノ凶荒ハ米穀高直
ナレトモ売買ノ道絶ヘサルト各自前年ノ困難ヲ
忘レサルヲ以テ大ニ戒心スル処アルヲ以テ稍
困苦薄カリシト云フ

   同郡札苅泉澤木古内三村
天保四巳年同七申年凶荒ノ如キニ至テハ老人
ノ心頭ニ覚知スルヲ以テ其一端ヲ知ルヲ得就
中天保四年ノ如キハ凶荒最モ甚タシト云ヘリ

当地方村民ノ如キ悉ク漁樵ヲ以テ業トシ其利
ヲ以テ函館ヨリ米噌ヲ購求シ生計ヲ営ミ居タ
リシ者ナレハ斯ク凶荒ニ遭遇シ米穀ノ販路全
ク絶ヘ衆庶一般困難セリト然レトモ戸口漁業者
タルヲ以テ魚肉ヲ食トシ或ハ野ニ出テ蕨根ヲ
堀採リ製シテ此ヲ食ニ充テ少シモ餓死ノ患ナ
カリシト故ニ内地ノ如キ餓孚通路ニ横ハリ父
子相食ム如キノ惨状ヲ見ズト云フ此際青森地
方ヨリ続々渡航セシ人アリテ漁業ヲ営ミ後土
着移住今尚残留セルモノ数多アリ是等ハ内地
ノ飢饉ニ因ミ渡航セシモノナリ依之推考スル
モ内地凶荒ノ被害大ナル知ルヘシ以上記スル
処是亦旧記ノ存スルナク詳細ノ景況探知ニ由

松前天保凶荒録p.22/49
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ナシ只古老ノ申傳概略如斯

   同郡知内小谷石両村
天保年間ノ凶荒ノ時ハ旧松前藩主ヨリ一日壱
人ニ付米一合ツツノ積ヲ以テ月々三度ツツ拂
下アリ依之蕨並葛ノ根ヲ堀採搗砕シ汁ヲ取リ
又イゲマ 方言但蘿蔔ニ似タリ ヲ堀採リ灰水ニテ煮テ搗砕キ
汁ヲ取リ桶ニ入レ水ヲ清シ濃キ処ヲ取リ穀類
ニ混和シテ食シ 多ク食スレハ腫病ヲ煩フ 又楢ノ実ヲ同上製シテ
食シモアリ其外馬鈴薯蘿蔔等ハ相応ノ作ニテ
右等ヲ以テ助命シ餓死壱人モナカリシヨシナ

亀田郡長 片岡新殿   亀田郡戸井村 戸長 飯田東一郎

勧第百九拾四号及御口達モ有之候「ヲシメ」昆布
食用発明シタル人名及年数等可成尤取調之議
被仰候得共旧記存スル者無之故ニ詳細事実探
知スル不能ハス依之当小安村支瀬田来二十九
番地平民小柳新右エ門当九十三年成ル古老ニ
拠リ発明ノ年数ヲ聞問スルニ何レノ頃ヨリ食
スルヤ不明然レ共新右エ門親タル者六十年ヲ
過テ死シ後最早当今五拾余年ニ至ル右新右エ

松前天保凶荒録p.23/49
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門幼年ノ節親ヨリ聞傳ヒニ者祖父ノ頃ヨリ「ヲ
シメ」ヲ食シタリト左シレハ三代ニテ凡ソ二百
年前ヨリ食シタルナラント申事ニ有之而己ニ
テ事実探知スルニ由ナシ仍テ「ヲシメ」製造法ハ
別紙ニ詳細取調御回致申進候也

   ヲシメ昆布製造法詳細昼
一 ヲシメ製造ニハ昆布ノ若生(方言早前ト云フ)ヲ砂上エ散
  シ天日ニテ能ク干シタル上流川ヘ入壱■日
  モ晒置白色ニナレハ天日ニテ干シ夫ヲ又タ
  「セーロウ」ヘ入火ニテ能ク乾キタル上臼ニテ
  細末ニシ「フルイ」ニテ卸シ而シテ其細末ヲ又
  タ湯煎ヲシテ能々清水ニテ洗ヒ後直ク天日
  ニテ干揚ケ貯蓄スルナリ右ノ如ク製造シ可
  成水気ヲ不受様貯蓄スル時ハ百年ヲ過ルモ
  斐テ変スル事ナシト云フ
一 ヲシメ製造スル期節者春中尤モヨロシ雪中
  ニテ干揚ケノ昆布雪上ヘ散シ置ケハ自カラ
  白色トナル故是又前同様製造シテ可ナリ

松前天保凶荒録p.24/49
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一 食用ニ儲ヘタル昆布夏分事ニ拠リカビ或ハ
  赤色ヲ帯ヒル事アリ決シテ捨ル事ナカレ之
  カ「ヲシメ」ニ極宜シ如何ンソト云フニ川又ハ
  雪ニテ晒ス時ハ通常ノ昆布ヨリ白ク成ル事
  甚タ早シ「ヲシメ」ニシテ味ニ別ナシ
一 ヲシメ食スル時ハ粟稗ヲ米江入テカデニス
  ルモ同様ノタキ方ナリ

   ヲシメ昆布取調ノ議ニ付復命
亀田郡志苔村以東尻岸内村支根田内ニ至ル地
方ニテハ今ヲ距ルニ十年以前頃マテハオシメ
則チ糧昆布ト称ヘ唯リ凶歳飢饉ノミナラス毎
村小民ハ平常雑飯トナシテ食用シタリ今現ニ
七八十歳ノ老夫幼少ノトキ(文間年間ノ頃)喰セシ
モノ多ク其謂所ニ拠レハ尚夫ヨリ数十年以前
ヨリアリシモノニテ其起因ハ詳カニスル能ハ
サレ共必ス百年(天明年間)以来ノモノニハ非ル
可シト而シテ其雑飯敢テ喰ヒ悪シキモノニア
ラス蘿蔔飯及粟飯等ヨリハ遥カニ喰ヒ易クシ
テ養分モ亦幾ハクカ多キ様思ハルト銭亀沢村
某ナルモノハ曽テ米穀遺亡ノ節ヲシメ昆布ト

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砂糖トノ二品ノミヲ以テ六十日間食用トシ其
間断テ一粒ノ米穀ヲ食セスシテ飢ヲ凌キシコト
アリ然レトモ胃弱ノモノハ或ハ少シク不消化ノ
憂ナキヲ得スト現今猶石崎小安戸井等ノ数ヶ
村ニハ一二俵ノヲシメ昆布ヲ貯蔵スルモノ数
戸アリ然ルニ十四五年以来一般之ヲ食スルモ
ノ無ニ至リシハ米穀運漕ノ便宜ヲ得シト漸次
畑作等ノ出来セシト又人民一般粗食セサリシ
風ニ至リシトニヨルナラン其製造ト煮炊法ト
ハ(農商務省ノ報告ニ在リシモノト略曰シケレ
バ略ス)旧生新生ヲ問ハス海浜ニ流遺シタル屑
昆布ニシテ自然雨露ニ曝白シタルモノハ其侭
之ヲ乾燥シ然ラサルモハ之ヲ四五日間水ニ浸

シテ後之ヲ乾燥ス此クスル故ハ昆布ノ粘質ヲ
除去シ枯稿ナラシムル為ナリ然ル後之ヲ細末
トナシ或ハ乾燥昆布ノ侭之ヲ貯蔵ス然スルトキ
ハ幾十年ヲ経ルモ決シテ腐敗スルコトナク其年
数ヲ経ル多キ程昆布ノ嗅味ヲ脱シテ雑飯トナシ
食シ易シ若シ旧生昆布ノ固クシテ煮ヘ難キ
モノアルトキハ梅干一二個ヲ加ヘテ之ヲ煮レハ
忽チ柔軟ノモノトナレリト是其理ヲ究メスシ
テ為ス処ナレトモ自然作用ノ妙ト云ベキナリ近
年ニ至リテハ断テ之ヲ製造スルモノナシトイ
ヘトモ海産地方ニ在テ人余テ之ヲ製シ凶荒ニ備
ヘ置カハ其労費少フシテ効益ヲ得ルコト必ス大
ナル可キヲ知ル未タ飢饉ノ至ラサルニ先チ之

松前天保凶荒録p.26/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (26 / 49 ページ)

カ儲ケヲ為スニ若カサルヘシ右取調候処聞取
候尽復命致シ候也

   茅部山越両郡役■調飢饉ノ状況取調
天保四癸巳年ハ気候不順蔬菜熟セス些少取穫ア
リシハ馬鈴薯ノミ為メニ沿道魚類海藻或ハ山
野自生ノ蕨根姥百合ヲ掘テ澱粉ヲ食シ又ハ楢
樹ノ実ヲ拾ヒ食ニ充テ辛ラク飢餓ヲ免レタリ
当時村役ノモノソノ実況領主松前家ヘ具申シ
各村ヘ米穀貸與アリシト云フ 砂原村百石掛澗村二十五石其他ノ村落石数不詳 尾
札部村名主飯田與五左エ門ハ玄米壱斗ツツ臼
尻村名主小川幸吉始メ同村重■ヨリモ白米壱
斗位ツツ同村土人ヘ救與シタリト云フ(戸数石数不詳)
天保七丙申年ハ四年ヨリ引続キ不作米価騰貴
細民ニ至ツテハ容易ニ食スル能ハス蕨根ノ如

松前天保凶荒録p.27/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (27 / 49 ページ)

キモ近辺ハ頻年堀尽シ老者ニ至テハ遠ク出テ
稼クヲ得ス大ニ困難ヲ極メタリト雖モ松前家
ヨリ多少ノ救助米ヲ出シ為メニ道路ニ餓死ス
ルノ惨状ハ一人モナカリシト云フ天保四年米
価壱俵(四斗入)銭拾七貫文同七年ハ壱俵三拾貫文ナ
リシト云ヘリ
山越郡山越内長万部ノ二村ハ弘化年間ヨリ内
地人ノ移住ニカカリ其以前ハ土人ノミニシテ
茅部郡ト同シク旧記ノ■徴スヘキモノナシト
雖トモ敢テ飢饉ノ影響ハナカリシト云フ
一山越内村ニ松田武左エ門ナルモノアリ 文政五年壬午六月
生明治十七年七月六十一年一ヶ月 嘉永二年中陸奥国南津軽郡碇ケ関村
ニ一宿セシニ人家破壊殆ント無人ノ如ク寂寞
究マレリ怪ミ問フニ去ル弘化二乙巳ノ年飢饉
ニ罹リ全村戸数三十三僅カ三戸ヲ残シ三十戸
ハ悉ク餓死離散セリトソノ惨状謂フニ忍サル
アリト実ニ今ヲ距ル三十六年同人記憶ニヨル
モノナリ

松前天保凶荒録p.28/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (28 / 49 ページ)

   大沢村外三ヶ村戸長調査
一炭焼沢村及荒谷村天保年間ノ飢饉ノ景況当
時七十年已上ノモノエ夫々聞尋候処炭焼沢村
ハ其頃戸数四十戸程ニ有之天保四巳年ノ飢饉
ハ十月頃ヨリ翌春ニ至リ売米無之大ニ困難
致候得共福山ニテ日々粥ヲ焚出シ毎朝貰受候
趣一同之食事ハ日々粥ヘヨモギ大根昆布等ノ
カテヲ交漁業ニ出ルニモ重ニ食シ且蕨根
及クゾウ堀収交者モ多分有之内地ヨリハ別ニ
多人数渡海候議無之候得共親類縁行ヲ尋来リ
候モノ有之候由ニ候得共多人数ニモ無之由荒
谷村ニ於テハ其頃当道奥地ヘ鯡取商売買ト唱

松前天保凶荒録p.29/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (29 / 49 ページ)

ヒ相応ノモノ四五軒有之多分右等ノ世話ニテ
大ニ困難致シ候モノ無之候得共食スル物ハ炭
焼沢村同様種々ノカテヲ相用ヒ候由概略ニシ
テ委敷心得候者モ無之書類等ハ何レノ村方モ
無之

   松前馬形上町平民能谷安五郎申出
一、天保四巳年ヨリ引続向七ヶ年不作ノ上大飢
  饉
一、津軽南部秋田表ニテ大飢饉非常ノ死亡夥敷
  当国ニハ死亡無之
一、前同国ヨリ松前ニ男女夥敷渡来ル依テ旧松
  前家ヨリ一人ニ付米一舛銭弐百文ツツヲ給
  与ノ上向地ヘ差戻ニ相成右飢饉ニ付当国ニ
  テハヲシメ昆布干シ又ゝバ大根等ヲ食糧ス
  巳年ヨリ二三年過十二月中又十手舩住吉丸
  舩々通路差止リ居候処始テ肥後米積来ル

松前天保凶荒録p.30/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (30 / 49 ページ)

一、右飢饉ニ付西浜請負人■■ノモノヨリ小前
  ノ百姓共ヘ札米トシテ一人ニ付米三合ツツ
  ヲ売拂

   村山傳兵衛事蹟ノ内
天保四巳年飢饉ノ際糊口スル能ハサル窮民ヘ
米粥一石焚出自宅ニ於テ救助既ニ三百余日ニ
及ベリ

   岩田金蔵事蹟ノ内
天保五午年奥羽両国非常ノ凶歳ニ際シ当市街

並函館江差在々小前困難ニ際シ米廉価ヲ以テ
相拂外ニ玄米四斗入五十俵救助内ヘ差出
同七年再度ノ凶歳ニ付奥羽飢饉市街小民菜色
有之ニ付直安米及救助米三十五俵昆布三叺食
料ノ内ヘ差出

   藤野伊兵衛同上
天保四巳年内地凶作ニテ輸入米不足市在ノ難
渋傍観スルニ不忍九月七日手舩住吉丸差向候
処同廿五日馬関ヘ着米千七百俵買積十月廿二
日帰着二見丸ハ函館ヨリ出帆是又馬関ニテ米
千八百俵買入九月三十日函館ヘ着両艘積収米

松前天保凶荒録p.31/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (31 / 49 ページ)

松前函館両所ノ中等ノ族ヘハ時相場一匁下ケ
右以下ノ族ヘハ元直段ヲ以テ売捌段ニ付為右
覚松前侯ヨリ法眼永叔筆三副對掛物下賜ル

   松前新荒町士族田村宇右エ門申出
一、天保度ノ不作ハ凡ソ六七年ノ間ナルベシ同
  四年七年ハ大飢饉尤松前地方ハ入米不足ス
  ルモ内地ノ如キ斃ルルモノナシ内地ヨリ来
  ルモノヘハ夫々救助有之曰ク蔵ヘ入松前家
  ヨリ右掛リノモノ被申付手当等遣シ帰国為
  致市中重立ノモノヨリ市在ヘ粥焚出等施行
  アリ当地米価一俵ニ付五円程ト聞ク

一、藩士ヘハ定例之扶持米ノ外ニ昆布一人ニ付
  壱舛ツツヲ添被相渡其他市在ヘモ夫々救助
  セリ
一、天保七年秋主用ニテ出府被申付此年最モ大
  飢饉南津ハ格別困難ノ様子ニ付秋田街道通
  行可致旨達ヲ受当地ニテ米其他食用物用意
  方夫々上ヨリ御世話アリ三厩ヘ渡海ノ処同
  所ハ格別ナル事ナシ平館ニ至リ最早人足ニ
  出ルモノナク浜辺或ハ野合等ニ斃ルルモノ
  アリ青森野辺地ノ辺モ同様ノ趣ニ付平館ヨ
  リ黒石ヘ越碇ヶ関マテノ間意外ノ事ニシテ
  実ニ絶言訣牛馬ハ皆食用物トアリ人ノ有ル
  家ハ甚タ稀ナリ往来ニ斃ルルモノ数ヲ不知

松前天保凶荒録p.32/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (32 / 49 ページ)

  実ニ鼻ヲ覆程ニ有之食物ハ当地ヨリ用意ノ
  モノヲ食ス秋田大館ヨリ先最上辺ニ至リ候
  処諸色ハ高価ナレトモ碇ヶ関辺ト違ヒ左程
  ノ議モ無之先食用物ニハ差支ナク夫ヨリ江
  戸マテハ同様ナリ

   江差片原町平民伊藤甚五兵衛 今年八十三歳
   ナルモノノ口碑
天保四年早春ヨリ江差ヘハ米穀ノ輸入ハ類年
ヨリ相減シ漁業モ現今ノ如ク盛ンナラサルモ
鯡漁業 二郡内ハ■■ノミ ニ着手アリシモ当年ハ薄漁加フル
ニ七月中姥神町ヨリ出火最モ延焼ノ多カリシ
モ細民ハ災害ヲ被ラス然レトモ初秋ヨリ追々米
穀ノ輸入モ減少シ聞クニ内地 青森縣下秋田縣下ノ諸方ヲ云フ ハ不作
ニシテ飢饉ナルヲ以テ一切航船モナク陪々人
民食料ノ欠乏ヲ視ルニ到ル七月中米価玄米四
斗入壱俵六匁五分 壱分三朱ト二百七十五文 ナリシヲ冬季ニ及ヒ

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