『日本書紀』景行天皇紀の蝦夷に係る記載について

『日本書紀』景行天皇紀にも蝦夷について言及があるが、景行天皇が実在したかどうかも不明があり、景行天皇時の蝦夷の実態を表しているとは受け取り難い。

これも『日本書紀』成立時、8世紀前後における、蝦夷平定を目論む中央の意を表した蝦夷観と解すべきであろう。

以下、「大足彦忍代別天皇おほたらしひこおしろわけのすめらみこと 景行天皇」の該当箇所を抜粋。

廿七年春二月辛丑朔壬子、武内宿禰あづまの國より還りまゐきて奏言まうさく、あづまのひなの中、日高見ひたかみの國有り。其の國人男女をとこめのこ並に椎結かみをあげもとろげて、人と爲り勇悍いさみたけし。是を總べて、蝦夷えみしと曰ふ。亦土地くに沃壤えてひろし。撃ちて取るべし。1

四十年夏六月、東夷あづまのひな多く叛きて、邊境騒動ほとりのくにさわぎどよむ。秋七月癸未朔戊戌、天皇群卿に詔して曰く、今東國安からずして、暴神あらぶるかみ多く起る。亦蝦夷悉に叛きて、屢人民をかすむ。誰人を遣して以て其の亂を平けむ。羣臣皆誰を遣すといふことを知らず。日本武尊奏言したまはく、臣は則ち先に西征にしをうちしいたはりき。是のえたちは必ず大碓皇子の事ならむ。時に大碓皇子愕然おぢて、草の中に逃隱る。則ち使者を遣して召來めしまゐこしむ。爰に天皇責めて曰く、汝しからざらむを、豈强あながちに遣さむや。何ぞ未だ賊にもむかはずして、以てまだきおそるること甚しき。此に因りて遂に美濃にことよさす。仍りて封地ことよさするくにく。是れ身毛津むけつ君、守君、二族の始祖なり。是に於て日本武尊雄誥をたけびして曰く、熊襲旣に平けて、未だ幾年も經ず、今た東夷叛く。何日いつ太平たひらぐいたらむ。臣いたはしと雖も、ひたぶるに其の亂を平けむとまうす。則ち天皇斧鉞まさかりりて以て日本武尊に授けて曰く、朕聞く、の東夷識性暴强たましひあらびこはくて、凌犯を宗と爲す。あれひとこのかみ無く、邑に首勿おひとなし。各封堺さかひを貪りて並に相盗略かすむ。亦山にあしき神あり、姦鬼かたましきおにあり。衢に遮りみちふたがりて、多く人を苦ましむ。其の東夷の中にm、蝦夷是れ尤も强し。男女交居まじりゐて、父子別おやこわきため無し。冬は則ち穴に宿、夏は則ち樔に住む。毛を、血を飲みて、昆弟あにおと相疑ひ、山に登ること飛禽とぶとりの如く、草をはしること走獸の如し。めぐみを承けては則ち忘れ、あだを見ては必ず報ゆ。是を以て箭を頭髻たきふさに藏め、たちを衣の中に佩けり。或は黨類を聚めて邊界ほとりを犯し、或は農桑なりはひときを伺ひ以て人民をかすむ。撃てば則ち草に隱れ、追へば則ち山に入る。故れ往古以來いにしへよりこのかた未だ王化みおもむけしたがはず。今朕汝の人と爲りをるに、身體むくろ長大たかく容姿端正かほきらきらし、力能く鼎をぐ、猛きこと雷電いかづちの如く、向ふ所かたき無く、攻むる所必ず勝つ。卽ち知る、形は則ち我が子にて、むざねは卽ち神人かみなり。是れ寔に天、朕が不叡をさなく、且つ國の不平みだれたるを愍みたまひて、天業あまつひつぎ經綸をさ宗廟くにいへたざらしめたまふか。亦是の天下は則ち汝の位なり。願はくは、深く謀り遠く慮りて、かたましきを探りそむくを伺ひて、示すにいきほひを以てし、なづくるにうつくしびを以てし、兵甲つはものを煩さずして自らに臣隸まうしたがはしめよ。卽ち言を巧みにして暴神あらぶるかみ調したがへ、たけきを振ひて以て姦鬼かたましきおにはらへ。是に於て日本武尊乃ち斧鉞を受けまし、以て再拜をがみたまひて奏して曰く、むかし、西を征ちし年、皇靈みたまみいきほひに賴り、三尺劔みじかきつるぎを提げて熊襲國を撃ち、未だ浹辰いくばくも經ず、賊首あだのひとこのかみ罪に伏しぬ。今亦神祇のみたまのふゆに賴り、天皇の威を借りて、往きて其の境に臨みて、示すに德教うつくしびを以てせむに、猶まつろはざること有らば、兵を擧げて撃たむ。仍りて重ねて再拜をがみまつる。天皇則ち吉備武彥と大伴武日連とに命せたまひて、日本武尊に從はしむ。亦七掬脛ななつかはぎを以て膳夫かしはでと爲す。2

  1. 黒板勝美 編『日本書紀 : 訓読』中巻,岩波書店,昭和7
  2. 黒板勝美 編『日本書紀 : 訓読』中巻,岩波書店,昭和7

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