「亜墨利加一条写」は、箱館内澗町2丁目「亜墨利加一条写」は、箱館内澗町2丁目 1にて雑貨清酒類販売店舗を営んでいた名主小嶋又次郎が、嘉永7(1854)年ペリー箱館来航時の状況を記録したものである。以下、函館市中央図書館デジタル資料館で公開されている画像データを翻刻した。なお、函館郷土文化会による複製本及び活字本も参照した。
同書の序文に、小嶋又次郎と武田斐三郎との関係(斐三郎の妻は、又次郎の妹)及び「亜墨利加一条写」が市立函館図書館に寄贈された経緯(函館郷土文化会会長齋藤與一郎氏の妻の祖母が又次郎の長女ツヤであり、ツヤが亜墨利加一条写を秘蔵していた。)について、以下のように記載されている。
後に又次郎は、五稜郭築城の設計者にして、諸術調所教頭、武田斐三郎の懇望を容れ配するに其妹を以てす。恐らくは、夙に海外事情に興味を有し、蘭学者に敬意を表しつつありしものの如し。又次郎に四人の子女あり、長女ツヤは内子の祖母にして、本書を秘蔵す。曽て箱館開港史料の貴重なるを説き、市立函館図書館に寄贈せしむ。
亜墨利加一条写
(表紙)
亜墨利加一条写
嘉永七 2甲寅年五月
亜墨利加一条写
(市立函館図書館キャプション)
齊藤與一郎氏寄贈
亜墨利加一条写 壱冊
(原本)
嘉永七年三月米艦箱館入港前
後の状況を誌す。名主小島又次郎
手録にして、当時に於ける箱館人の
外人観を知るに足る。
市立函館図書館
嘉永七甲寅 3三月 江戸神奈川澳江
亜墨利加船渡来ニ付諸大名御警衛之
御人数三捨三万六千余其外鉄炮鎗
抔之員数御備方泰平安民画図 4ニ委ク
見得たり同船昨年茂江戸表江渡来
応接向者不存 同所事済候哉豆州
下田湊江アメリカ共乗廻リ夫より御当所江
相廻候趣ニ付三月廿二日御家老
松 勘解由様乗切同様ニ而当所江御着ニ
相成外御役人様六七人参リ候得共御名前
不存 同月廿六日御台場不残御見分
其後澗之内橋舟ニ而浜手石垣ニ至迄
御念被入築島舛形外まて御見分
夫より陸御馬にて御役所へ御帰リニ相成
御評定何義と不奉存候得共婦人
市中御取払御猶予奉願上候ニ付
浜手高塀并ニ小路口々囲ヒ町々
門立候様之御沙汰も可有之と恐なから
奉察候
嘉永七甲寅三月写
覚
一 中川善右衛門よりハ手紙之通昨日手紙差越候
ニ付今朝和泉守様御勝手江罷出面会之処
今度アメリカ船帰帆之砌箱館表江罷越候趣
尤上陸者不相成旨被仰渡者之有候得共右
アメリカ船此節下田表江罷越前同様被 仰渡
有之候処同所より上陸所々俳徊乱妨ハ不致
候得共百姓家等江罷越食物外之品ニても
無心致し候由尤急度答礼いたし候よし
右ニ付而者箱館表江罷越之砌者上陸之
程も難斗候間是等之趣申上置候様
且又酒等者一切目に不掛様隠し置候方可
然アメリカ人者至而短気ニ而少しさからひ
候而茂直ニ立腹いたし候間食物ニ不限
目ニ掛リ無心いたし候得ハ不相与候様ニ茂相成
間鋪哉与ヘ候而不宜大切之品等者隠し置
候間可然哉ニ思召之由
一 寺院等罷越候得ハ殊之外長座致し候由
一 子供者殊之外愛し菓子等茂相与ヘ候由
乍去万一連行候様之事有之候而者以之外之
事ニ候
一 如何様之事なから婦人を目掛候由右者成丈
目に掛らす候様滞舟中者為立退候哉又者
能々隠し置方可然哉と思召候右等之事より
自然あらそい之端と相成候間能々々心付
村方等江茂被 仰付候方可然右様之次第
殊之外御案事被遊厚御勘考何卒
幾重ニも穏便御取斗首尾能帰帆
相成候様ニと申上候様被 仰付候趣申聞候
一 此度異国人之義ニ付万事穏便ニ取斗
候様被 仰出候
御内実者数百年太平ニ馴候人民
戦場之実地者不心得其上諸国之海岸
御備等茂御行届者申ニ茂無之候得者
急度御勝利ニ候共彼等船自在なれハ
忽チ帆去何れ江罷越候茂難斗左ニ
候得者人命を損シ候斗ニ而誠以歎敷
次第被 思召先穏便之取斗被 仰出
候義ニ御座候由極内々申聞候
右之段申上候以上
三月 嶋田 奥
嶋田様之義者江戸御詰ニ候
触書
一 今般神奈川沖江渡来之亜墨利加
退帆之節箱館湊見置度旨願出候ニ付
御聞届之上近々当湊江渡来之趣公辺より
御達有之尤異国人共上陸者不相成旨
被 仰渡茂有之候得共下田辺江上陸所々
俳佪いたし百姓家等江罷越食物其外
之品無心いたし候由当湊江渡来上陸之
程茂難斗候間若致上陸候体ニ茂
見請候ハゝ市中家々不残戸口〆切
締ヲ付可申売もの米酒者勿論目立候
品者隠し置食物等不相見様取斗可申候
若食物其外之品共無心いたし相与之節
為答礼品もの差出候而茂請取申間鋪
強而差出候ハゝ請取置早速町役所江
品もの持参相届可申候
一 異人共殊之外婦人を目掛候由依之
市中端々之婦人共海岸相隔候町々
歟又者最寄山付村々所縁有之もの共
成丈引移候義ニ茂相成申間鋪依之
蔵々江厳敷締ヲ付滞舟中不出逢様
可致候右之趣市中并海岸村々江
不洩様可相触候
寅三月
嘉永七甲寅弥生下ノ七日
町御役所より御用之廉々
問屋小宿請負人中市中町代中
今度亜墨利加下田湊より近々当湊江
渡来之趣ニ付婦人之義者老若ニ不抱
最寄山付在辺江被引越可申と之御沙
汰ニ付一同驚入心配仕候間翌下ノ八日
- 現在の末広町。元木省吾『新編=函館町物語』、昭和62年、幻洋社、「函館の町のうつりかわり一覧」p.13。函館市中央図書館デジタル資料館「官許/箱館全図 万延元年」にも「内澗町二丁目」が見える。↩
- 1854年↩
- 1854年↩
- 横浜市「泰平安民画図」、閲覧日:2022年1月15日↩
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