『新羅之記録』に以下の記載がある。
長祿元年五月十四日夷狄蜂起來而攻撃志濃里之舘主小林太郎左衞門尉良景、箱舘之河野加賀衛門尉政通、其後攻落中野佐藤三郎衞門季則、脇本南條治部少李繼、穩内郡之舘主蒋土甲斐守季直、覃部之今泉刑部少季友、松前之守護下國山城守定季相原周防守政胤、禰保田之近藤四郎右衛門尉季常、原口之岡邊六郎左衛門尉季澄、比石之舘主畠山之末孫厚谷右近將監重政所々之重鎭雖然下之國之守護茂別八郎式部太輔家政上之國之花澤之舘主蠣崎修理太夫季繋堅固守城居
『新羅之記録』
これが日本史の教科書にも掲載されているいわゆる「道南十二館」で、整理すると以下のとおり。
- 志濃里館 小林良景
- 箱館 河野政通
- 中野館 佐藤季則
- 脇本館 南條李継
- 穏内館 蔣土季直
- 覃部館 今泉季友
- 松前大館 下國定季、相原政胤
- 祢保田館 近藤季常
- 原口館 岡邊季澄
- 比石館 厚谷重政
- 茂別館 下國家政
- 花澤館 蠣崎季繁
一方で、『松風夷談』に以下の記載がある。
○文政四年箱館ノ東ニトイト云フ処ニテ古銭堀出シ洗ヒテミガキ候処文字分リ大観通宝開元永楽洪武銭ノヨシ依テ右蝦夷地住居ノモノヨリ公儀ヘ申立ニ付御調子コレアリ候処凡六十二貫餘有之候由其外水晶朱砂ノ類百品餘モ堀出候ヨシ
『松風夷談』
右トイト申処ニ岡部澗ト申小舟ノカヽリノ処コレアリ陸ニ岡部館トイフ処コレアリ右ノ処ニ石碑アリ公邊御役人中ヨリ右石碑石摺ニ申付ラレ摺候ヘ共文字聢ト相分リ申サズ右石摺ノ内ニ岡部六弥太六代孫岡部六左衛門尉季澄ト云名ノ所斗リ顕然ト分リ候由昔ヨリ此邊ノ沢ニ折節光リ物度々有之其所ノ人ニテモ近辺ヘ行キ見ルコト昔ヨリ禁シ候由右ノ邊ヨリ石櫃六尺四方有之品一個堀出シ候右ノ内ハ見申サズ由内ニハ如何ナルモノ有之候ヤ外ニ沙汰之ナリ公邊御評議次第被仰出可有之由松前ヨリ申来依テ記置
これによれば、戸井に「岡部澗」という舟繋りが、そして、その陸に「岡部館」があり、石碑に「岡部六弥太六代孫岡部六左衛門尉季澄」と刻まれていたらしい。
岡部館と志苔館について以下のような小林真人氏による説明がある。
出土した古銭「大観通宝、開元、永楽、洪武銭」が、岡部館の放棄と関係あるとすれば、15世紀中頃のコシャマインの戦いと深くかかわっていたと考えられます。(略)斉藤先生のお話では、戸井の岡部館は、城砦として防御性の高いものであり、一方、小林良景の居所とされる志苔館は防御性のあまりないものとのことです。(略)発掘調査の結果、時代の違う建物跡によって、志苔館はコシャマインの戦いよりはるか以前に構築されたとされています。道南には十二館のほかにも、館跡や、館が存在していたことを推定させる地名もたくさんあります。
入間田宣夫・小林真人・斉藤利男編『北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団―』山川出版社,1999年,p.85
ここで気になるのは『戸井町史』に掲載されている以下の「伝説」。「伝説」(言い伝え?)ではあるが「ごく粗末なもの」というのが、上記小林氏・斉藤氏による「岡部館は、城砦として防御性の高いもの」と一致しない。
「旧役場跡の高台に和人の館があり、岡部某が館主であった。館とは名のみで、ごく粗末なもので、僅かに土畳を築き、蝦夷の家屋と異なる建物があっただけである。長禄元年(一四五七)五月の蝦夷の大乱以前に、戸井館がコシャマインの挑戦を受けた。館主岡部某は、兵を浜中に出して抗戦した。然し衆寡敵せず、更に蝦夷の放つ毒矢にあたって死するものが数多かった。館主は、『今はこれまで』と覚悟し、己が財宝を館の附近にあった井戸に入れて蓋をし、出でて奮戦して死し、館が陥落した」。以上が戸井館の伝説である。
『戸井町史』「二、戸井の板碑(いたび)と発見の経緯」(2024-01-14(日) 22:19:13アクセス)
岡部館は『新羅之記録』に登場しないが、その築造時期について『函館市史』にて以下のとおり推定されている。
最新銭の永楽通宝の初鋳年が一四〇八年であることから、一つの可能性として、戸井館は、一四〇九年以後からコシャマインの戦いまでの時期に、岡部季澄によって築造されたことになろう。志苔館が創建されたのは、前にみたように、一四世紀末の頃と推定されるので、この志苔館に遅れること程なくして、戸井館が、アイヌと接する最東端に築造されたことになる。
『函館市史 銭亀沢編』「戸井館の築造」(2024-01-14(日) 22:00:16アクセス)
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