壱両二分余ニ昂騰ス細民困難ヲ極メ蕨ノ根等
ヲ掘ルモ山野ニ跡ヲ絶ス旧松前藩 後館藩トナル ニテ江
差ヘ檜山会所ヲ■官吏ヲ派遣セシメ民政ノ事
務ヲ兼シム当時桧山会所ヨリ赤貧者ヘ米ヲ与
ヘ救育ニ従事シ及札米ヲ売ラシムルニ壱升百
弐拾文ニウラシム窮民及貧大ニ飢餓ヲ免レタ
リト云フ
但本年冬ヨリ超テ五年ノ春ニ至リテモ野餓
孚アリシヲ見ス同年初夏旧幕巡見使来着セ
リ
天保五年六年ハ各村落ニテ畑作ニ従事スルモ
ノ多キヲ視ル作モノノ生暢最ヨシ村民ニ聞
ケリト云フ
天保七申年ノ凶荒ハ巳ノ年ヨリ一層ニシテ人
民打ツツキノ窮乏故市街及各村トモ疲弊ヲ究メ
タルニ際シ内地ヨリ窮民続々当地ヘ渡航シ■
故ノ有無ニ関セス無給ニテ雇入ラレント言込
ニ断ルモアリ又口糊ノミニテ差措クモアリ又
食ヲ与ヘテ行カシムルモアルヨリ路傍ニ斃レ
ルゝノ惨状ヲ視タリト此際モ桧山会所前災ノ
度ノ如ク札米ヲ売ラシム一升価百二十文ニシ
テ一家ノ人口ニ応シ二日或ハ三日ノ食料ニ充
ル分ヲ売与ヘ札米ヲ買フノ資力ナキノ貧民ヘ
ハ夫々施米ノ挙行アリタリ其米タルヤ江差市
街ノ富民より檜山会所ヘ差出タルト談所ノ支
出等ヲ合セテ施与セシト想像セリト云フ本年
ノ米価玄米四斗入壱俵ニ付二両二分余ニ昂■
セリト同年冬十月甚五兵衛同町ニ宮下七右エ
門 故人 ナル者自分船ニテ津軽地方ヘ米ヲ買ント
渡航シ青森ニ至ルニ容易ニ米ノ積出ヲ免サス
同所ノ富家及酒造家杯ニテ粥ヲ施与スルノ場
合ニ遭遇セシニテ些少ノ米ヲ隠匿シテ積載シ
テ逃ルカ如ク青森港ヲ出航其沿海ナル小湊ト
云フ所ニヨセテ四五軒ノ家ヲ訪ヘシニ枕ヲ並
ヘテ餓死セル家アリ或ハ人アルモ容顔蒼膀又
ハ疲労シテ言語タニ通セサルモノヲ視尚隣村
ニ到リテ見ルモ同様惨状ナルニ驚キ早々船ニ
帰抜錨江差ヘ帰航セリト即日七右衛門ヨリ聞
ケリト云フ
江差影之町平民中村利兵衛 今年六十五歳江差病院理事 ノ口碑
天保七申年飢饉ニ際シ内地ノ不熟ヨリ入米更
ニナク当地人民ノ窮乏ニ罹ル者多キヲ視ルニ
檜山会所ヨリ札米或ハ救助米等ヲ乞フ者多ク
又ハ山野ニ蕨葛ノ根ヲ掘ルモノ太タシキヲ視
タリ富民ニシテ其余裕アルモノモ頻リニ節倹
シテ飢災ニ陥ラサルヲ要ス又貧民ノ如キ日ニ
卒々食ヲ覓ムルノ汲汲タルノ景況ニテアリシ
ヲ覚ユ此際各村漁業者ノ銀主人江差姥神町岸
田五郎右衛門 当主ヨリ二代前 ナル者ヨリ資本ヲウクル者九
百戸余ニテ此人員モ極メテ多カルヘキニ五郎
右衛門方ニテモ輸入米ノ不足ヨリ仕込方ヘ支
饋リノ不充分ヨリ米壱升素麺壱玉大豆三合位
ノ割ニ等測シ壱戸応分ノ食料ヲ配当シ救育セ
シト聞ケリト云フ
五勝手村平民矢原畄吉 当年七十歳 ナル者口碑
天保七申年冬十月ヨリ酉ノ正月ニ至リ津軽地
方ヨリ福山地方及江差海岸ノ村落ヘ男女渡航
シ各随意ノ地ヘ上陸セシメタリ其人民ハ多分
無給ニテ雇ハレントスル数百人アリ我五勝手
ヘモ雇ハレンシモノ多クアリタリ中ニハ乞食ヲ
シテ路傍ニ斃ルモノアリ又上ノ国村ヨリ当村
ニ達セジジテ沙漠或ハ叢中ニ■レ死スル者ア
リシヲ視タリト云フ
同年十月ノ頃カト想像セル此際ニ同村ノ長兵
衛 故人 ナルモノノ雇人ニシテ漁業ノ船頭 姓名不詳 ヲセ
シモノ年々津軽地ヘ帰船シテ春季ニ至レハ本
地ヘ来ルヲ常トセシモ此飢饉ニ際シ此年ハ年
内ニ渡航ノ用意セシニ飢民ノ依頼ナリトテ男
女 七八歳ヨリ十三四歳マテ ヲ四十人程モ乗セ来タリ当村字相泊
リヘ上陸セシメ夫々養育者ニ■シ残ラス生命
ヲ全クセシメタリト云フ 詳■其際食ノ■■アルモノハ船頭ヨリ壱人或ハ二人ツツモラヒシモノト想像セリ
同村平民川道仁太郎 当年七十歳 ナルモノノ口碑
天保四巳年内地凶荒ノ為江差及各村モ米穀ニ
乏シク別テ当村及上ノ国沢ニアル処ノ支村等
モ困窮ヲ究メタルヨリ追々当村字トト川奥ノ
荒蕪地ヲ開墾シ蕎麦ヲ初テ播種シ及馬鈴薯等
ヲ播種シ■カ実リモアリシヨリ年々開墾ニ従
事セシニ同七申年ノ大飢饉トナリテハ本村ノ
作物モ大不熟殊ニ内地ヨリ米ハ一切輸入ナシ
トテ市街ニテモ米穀ノ売買ハ追々ニ減セシヨ
リ日々山野ヲ奔走シテ蕨葛ノ根ヲ堀取リ一夜
ノ内ニ澱粉ニ製シ粥ニ混淆シテ食ニ充テ山野
積雪ノ候ニ至リテハ海岸ニ立テ昆布ノ寄リ上
ルヲ拾ヒ火炉ニカケテ乾燥セシメ春ツキテ粥
ニ淆同シテ食シ或ハ蓬ヲツミ煠テ水ニサラシ
同シク粥ニ混シテ各食数■月ノ惨状ナリト懼
々トシテ云ヘリ
又上ノ国沢ノ寒村ヨリ市街各村ヘ来タリテ犬
ヲ打殺シテ持帰ルヲ見ルコト日々ナリト云フ
江差上野町平民土岐大三郎 当年五十九歳 ナルモノノ
口碑
同人モ父存生中則チ天保年間津花町居住ニテ
豪商ノ屈指タルヲ以テ同七年ヨリ八年ノ頃ハ
同町々代ヲ勤メタルヲ以テ救民ノ事ニ少ク関
セシヤ其際同家ニ所有ノ舩アリシヨリ米欠乏
ニ付自分ノ食用及仕入方ノ手当ニ充ンカ為津
軽地ヘ渡航シ米九百石程買入レ搭載シテ帰帆
セシハ同八年正月也ト思ヒタリ其舩ノ米ヲ積
帰リタルヲ聞檜山会所ニテ亡父ニ令シテ其米
ヲ残ル処ナク買上ラレタリ依テ自分ニテハ壱
俵モ使用セザリシト相像スト云フ壱俵ノ価金
壱両壱分ナリト覚ユト云フ
本年ノ飢饉ニ遭遇シ細民ノ困窮ヨク衆庶ノ知
ル所ナルニ同年冬季ヨリ超テ正月二月両月間
秋田津軽南部地方ノ人続々押渡リ口糊ノ為ニ
市街ヲ奔走シテ雇主ヲ覓ントスルノ夥多ナル
モ壮年ノ者ハ兎角漁夫ノ見込ヲ以テ夫々有付
引受人モアリタルニ老年輩ニ至リテハ引取人
モナキヨリ桧山会所ニテ其者共ヲ集メ壱人三
合ツツノ米ヲ給ハリテ救育ニ着手セラルルニ
テ詰木石町字鍛冶町下濱ニテ巨大ノ板蔵ヲ借
上ケ窮民数百人ヲ容シ救育シ数月間ノ後全ク
暖天ニ赴シヨリ夫々其方向ヲ得セシメ放散セ
シト云フ
本年ノ如キ市街商家ニ売米更ニナキヨリ細民
ハ粥ニ蕨葛ノ澱粉又ハ野菜(蓬及野々葉)或ハ壓布(昆布ヲ晒シ乾燥セ
シメコマカニセシヲ云フ)混同シテ口糊ス就中内地ヨリ来ル人民
ハ米穀ヲ求ムルノ資力ナキハ勿論ナレハ鯡ノ
鮓或ハ切込等ヲ乞テ野菜ヲ交ヘ食シテ命ヲ完
フセシ者多シト云フ其凶年以来鯡ノ鮓及ヒ切
込等ヲ余分ニ貯フルハ尋常賄ノミナラス凶歳
ニハ一食ノ稗ケヲナスモノトテ今ニ至リテ人
ノ言ヘアエルナリト云フ
江差沢茂尻町居住池垣為吉ノ祖父専右衛門
存生中ノ記録中ヨリ授写ス
天保四年ニ至リ津軽■口沢村幸八船春雇人男
女凡ソ五十人計リ積来タルニ其年折悪ク向地(向地トハ奥羽ヲサシタルナルベシ)
大凶作爰元米直段大ニ高直ニ付旅人共向地ヘ
渡海被仰付(渡海仰付ラレトハ役所ヨリ旅人ヲ帰国セシムベクノ達シ出タルナルベシ)右風待中無給金ニシテ幸ヒロ過而
己ノ人故当村弥兵衛親父ノ沢ニ於テ新田開発
仕工夫致シ凡一人男バカリ日ニ廿四五人三十
人位宛三月五日頃ヨリ十五日頃迄但シ南ヨリ
北方ノ沢奥ヘ凡七十間ハカリ西ヨリ東四十間
位四方ヘ土手上ヶ川外ハセキヲ堀リ回シ右人
数昼夜ノ働キ日々三喰又ハ弁当トシテ濁酒一
度ツツ為呑此方ヨリ鍬頭トシテ当村居住生レ
ハ津軽イツミノト申地ヨリ来ル人ニテ小笠原
仁太郎ト申人ヲ差配人トシテ手配仕三月一■
ニ出来尚又田地大小取合五十枚ハカリ耕ス其
夏■稗苗植立陸作ハ大豆小豆或ハ五升芋類ヲ
マキ今年諸国田作トモ大豊作ニテ十分実リ大
ニ勝利罷在候右幸八船三月下旬二十七日出帆
相成候■主一人此方ヨリ手当金三両ニ身欠壱
本鮓鯡壱樽呉ツカハス同人大ニ悦ヒ行申候
天保四年六月廿八日律花町通リ切石坂下濱水
戸兵作方ヨリ出火ス
天保七年ハ記載ナシ
同八年酉ノ三月 昨申年ノ秋頃向地北国筋加
賀越中辺並出羽奥州地陸作共大凶作ニ付飢饉
ニ及当国辺モ五穀大高直市中在町ハ大徒■(大徒■ハ大騒動ノ誤カ)米
一切売買ハナク極不自由ニハ候ヘ共春鯡漁業
ノ為相庶ニ積下リ船有之就テ今少ノ間米モ入
不足ニ付此方飯米買合セモ可也有之候ニ付当
村御役場ヨリ札米売セラルル由被仰付五俵札
米ニ売払ヒ並五俵ハ村中極窮ノ者共ヘオスク
ヒニ呉遣ス札米ノ義ハ江差直段当地百廿文(壱升ニ付百廿文也)ニ
売遣ス尤モ内通リ直段ハ■■ニ抱ハラス右様
ノ次第諸人助ノ為メ五俵札米五俵オスクヒ右
難渋ノ者共ノ名前ノ義ハ別帳面■要記有之候
此記載ニ年代月日丈ケシルシ置候後日子孫心
得ノ為
尚又同村藤谷治兵衛殿米沢山買入有之様子ニ
テ村米数十貸付シ札米ヲ三十俵売上被仰付則
御請致候様子是又噂承リ候ニ付記録ス
但他所ニテ内証売買四斗入壱俵壱両二分三
分位ナリ
同年四月ニ相成江差ヘ下リタル壱番船越後米
四斗入壱俵壱両壱分ヨリ二分位ノ売買ナリ
右是迄授写
佐々木律郎福山ニ在シ時養父母及古老ニ聞ク
旧津軽侯江戸出府在邸ノ際旧松前侯ノ邸ヘ使
者ヲ以テ御挨拶ニ及ハレタリト其語ニ曰天保
四同七両年奥羽大凶荒ニ際シ凶国ノ人民飢饉
ヲ免ント松前地方ヘ渡リ其凍餒ヲ凌キ命ヲ完
フセシモノ夥多ナル内弊国ノ人夫就中多ク貴
国ノ救育ヲ以テセシ者寡ナカラサル趣相聞ヘ
候ニ付此段厚ク報謝ニ及フト且向後貴国ニテ
米穀欫僅ノ際ハ弊国ヨリ保護致スヘク旨共懇
々使者ヲ以テ申入ラレタリトハ福山地方古老
ノ人口々専ラ膾炙ス
該凶荒ノ災ニ松前地方ヘ波及スルニ際シ両度
ノ飢饉ニ難ヲ等フスル畢竟常ノ備ヒナキヨリ
トテ豪家ハ内地ニ憑テ籾米等ヲ貯フル者モア
リタリト聞ク■凶災以来松前家所領ノ折ハ壓
布ヲ毎村漁家一戸ニ付一舛入壱袋宛ヲ年々徴
収シテ凶荒ノ備ニ貯蓄致シ来ルモ何年度ニ徴
収ヲ廃止セシヤ詳ラカナラス
慶應元年ヨリ同二年間福山地方米価ノ昂貴セ
シコト已ニ玄米四斗入壱俵七両三分以上ニ及ヒ
細民困難ナリシモ餓死セシ者ヲ視ス旧官ニ於
テ豪商ニ令シテ札米ヲ売シ……………………
ムルニ当リ壓布ヲ出シテ米ト共ニ應分ヲ割付
与ヘタルハ則チ其先徴収シタルノ功ナリト云
ヘリ
太櫓郡古櫓村
藤 谷 米 蔵
六十三歳
天保四年ノ儀ハ何分辨知セサル處アリテ申上
ケラレス天保七年大飢饉ノ現況ハ最モ甚シク
水田稲作ハ壱粒モ実ラス畑作トテモ悉ク熟セ
サル故ニ中等以下ノモノハ日々食物田畑ヨリ
穫ルコト出来難キ為メ老人子供モ山ヘ行ケルモ
ノハ皆蕨ノ根ヲ掘リ打砕キ粉ニ製シ漸ク其日
ノ糧ニスレトモ迚モ空腹ヲ補フコトナリ難ク殊ニ
ハ数多ノ人ナシハ其蕨ノ根モ採リ続カス又食
糧十分ナラザルヨリ山野ヘ歩行スルノ力モ尽
キ終ニ餒ヘ疲レテ家ヘ出ツルコトモナラヌモノ
ハ坐ナカラ倒レ或ハ漸ク歩行シ或ハ匍匐テ出
レハ路道ニ転ヒ再ヒ起上クヘキ気力ナク其侭
死スルモノ日々夜々ニ多ク道路ハ死骸ノ為メ
目覚シク誠ニ恐ロシキ事ニ有之候是等ハ皆私
生国陸奥国津軽郡兼館村ニ於テ現ニ目撃シタ
ル事実ニシテ私モ漸クシテ助命シタル儀ニ御
座候
斯ノ如キ場合ナレバ坐ナカラ生命ヲ保タレ難
クニ付幸ヒ強壮ナルモノハ秋田地方ヘ逃ルル
モノアリ松前ヘ渡船スルモノアリ右等ノ内目
的ノ地ニ到ラサルニ餓死シタルモノモ数多有
リタル赴承リ候
私儀ハ此大難ヲ漸ク凌天保八年三月古櫓多村
ヘ小船ニテ渡リ当時ハ仝村ノ人家ハ三戸ヨリ
ナキコト故急ニ茅ヲ刈リ小柴ヲ伐リ小家■ケヲ
ナシ昆布若布鮑等食物トサヘ見レハ目ニ当ル
モノ採リ又ハ蕨ノ根葛ノ根ヲ堀リ粉ニ製シ又
ハ百合ヲ堀リ煮焼シテ日々ノ食料ニ充テ漸ク
相助リ候外三戸ノ人々モ仝様ノ凌キヲ致シ居
リ候儀ニ有之候
仝郡仝村
西 川 孫 十 郎
五十七年
天保年間諸国大飢饉ノ趣ハ伝承仕候得共当村
ニ生育セシ私ナレバ其現況ハ不存候得共其当
地ヘ影響ノ及ホシタル実況ハ幼年ナカラ粗存
居候天保七年飢饉ノ前ハ玄米壱石代金壱両位
ノ処仝年ノ秋ヨリ翌八年春ニ至リ壱石金五両
ニ騰リ此頃私共始メ当地ノ人々糧米ヲ買入ル
ヘキ手段ナク昆布若布鮑ノ類又ハ百合蕨ノ根
葛ノ根ヲ堀リ各粉ニ製シ食料ニ致シ相凌候然
ルニ葛ノ粉ヲ多食シタルモノハ忽身腫気ヲ生
シ二三名死亡イタシ候
当時太櫓郡中ノ模様ハ旧土人ヲ除クノ外人家
ハ古櫓太村ハ三戸太櫓村ハ四戸良瑠石村ハ三
戸鵜泊村ハ人戸ナシ又郡中往来スルモノモ甚
少ナク故ニ道路モナク海岸ノ岩石ヲ漸ク歩行
イタシ候
瀬棚郡瀬棚村
山内 萬蔵
五十八年
瀬棚郡瀬棚村
茅野 儀兵衛
六十四年
天保四年七年諸国大飢饉ノ頃ハ私共幼年ニシ
テ確ト辨ヘス候得共父母ヨリ伝聞ノ侭左ニ申
上候
天保四年ノ飢饉ニ越后津軽其他国々ノ人々生
国ニテハ食糧乏シク堪ヘカヌルヲ以テ当道ヘ
逃レ参ル節私共父母共申合家族各四人ツツニ
テ小舟ニ乗組仝年七月中瀬棚村字三本杉ヘ到
着其頃ハ仝村旧土人拾五戸外人家四戸有之右
四戸ノ内ヘ慈愛ヲ受仮住イタシ候
到着后食料ハ蕨ノ根葛ノ根ヲ山野ヨリ堀リ採
リ打砕キ粉ニ製シ豆腐カラ或ハ米少々ヘ粉多
分ニ混入シ食用ニ供シ候又昆布ヲ刈リ日ニ乾
シ其上火ニアブリテ臼ニテ砕キ四舛入位ノ鍋
ヘ昆布ノ粉壱舛ヲ入レ水充分ニ入レ能ク煮タ
ル上煮汁ヲ棄テ其昆布粉ヲ水ニテ洗ヒ此手続
ヲ二三度ヲ経テ飯ノタキ上ケノ際右ノ粉ヲ飯
ノ上ニ布キカケ暫時蒸シ置キ后チ飯ト混合シ
相凌居候
天保七年ノ飢饉ハ一層甚タシク米穀欠乏ニ付
前四年ノ如ク蕨葛根昆布等頻リニ調製シ食糧ニ
充テ漸ク助リタル儀ニ有之候
久遠郡太田村
神 野 彦右エ門
七十七年
天保四年中ハ尓志郡熊石村ニ居住罷在候当時
仝村ノ戸数六拾戸余リニシテ相応ナル商店六
七戸アリ然ルニ本年ハ諸国飢饉ノ趣ハ伝承仕
候得共日々小売米等有之故食糧ニ就テハ仝村
内ノ人々格別ノ難儀モ無之様覚候
仝六年久遠村字一艘澗ヘ移リ仮小家ヲ造リ住
居イタシ時ニ久遠湯ノ尻上古冊太田村中ニ総
戸数旧土人共拾四五戸程ニ有之翌七年ハ本地
ノ影響尤も甚シク米ハ村中ニ払底一切買求ム
ルコト相成難ク少々充熊石ヨリ買求メ此年ハ漸
クニ相凌キ翌年ハ一層困難始メテ粟稗馬鈴薯
ヲ蒔付又山野ヨリハ蕨根葛ノ根ヲ堀リ各粉ニ
製シ重ニ食料トセリ又昆布若布ヲ採リ食糧ノ
補ヲナシ相凌キ候其后天保十三年太田村ヘ移
住仕候
久遠郡湯尻村
齊 藤久右エ門
六十七年
天保二年夏父ト倶ニ尓志郡熊石村ヨリ久遠郡
平田内村ヘ移住当時仝村ノ戸数三戸ナリ仝四
年諸国凶荒ニ付然レトモ此年ハ漸クニ相凌翌年
ヘノ影響甚シク蕨ノ根葛根ヲ堀リ昆布ヲ拾ヒ
何レモ粉ニ製シ米ヲ打砕キ粗粉トナシタルモ
ノヘ混和シ■キ粥トナシ然ルニ五人ノ家族ニ
シテ一日ニ三度ツツ食糧トナスヘキ程蓄モ無
之故一日二食ニ定メ精々相凌キ其后天保七年
飢饉ノ節モ前年仝様ノ凌ヲ以テ取■候文久三
年中湯ノ尻村ヘ移住致候
久遠郡平田内村
■ 屋 ヤ江
七十一年
文化年中父ト倶ニ熊石村ヨリ平田内村ニ移住
夫ヨリ数年ヲ経天保四年諸国大飢饉ノ節ハ(当
時仝村ニ戸数三四戸アリ)翌年私共始メ村中ノ
人々蕨ノ根ヲ堀リ寄リ昆布ヲ拾ヒ何レモ粉ニ
製シ粉粥ヘ米少々交ヘ食セリ粟稗大根ヲ蒔付
粟粥ヘ大根ヲ細カニシテ混入シ食糧トイタシ
候仝七年再ヒ飢饉ニ付此回ハ一段甚シキ故ニ
蒔モノモ一層多クイタシ蕨根等モ頻リニ堀リ
採リ漸ク相凌キ候諸国ヨリ渡リタル人ハ平田
内ニハ無之様覚候
仝郡取澗村
井 川 サ ヨ
七十一才
文化年中父ト倶ニ尓志郡乙部村ヨリ貝取澗村
ヘ移リ其后天保四年中国々飢饉ノ節ハ(当時貝
取澗村戸数三四戸アリ)村中ノ人ハ勿論私共ハ
日々蕨ノ根ヲ堀リ昆布ヲ刈リ何レモ粉ニ製シ
右粉ヲ粥ト為シ食セリ又粟稗蘿蔔ヲ蒔付粟粥
ヘ蘿蔔ヲ細カニ切リ粥ヘ混入シ食ス仝七年ノ
凶荒ニモ右之如クニシテ相凌キ候其頃諸国ヨ
リ渡リタル人ハ貝取澗ニハ無之候
奥尻郡釣懸村
上 野 元兵衛
六十六年
天保四年及七年中ハ奥尻郡釣懸村ニ於テ他家
ニ召使ハレ居リ候然ルニ前両年間奥羽地方大
飢饉ノ趣ハ正ニ伝承仕候得共当時当郡ハ他ヨ
リ漁稼ノモノ夏中数多入込秋ニ至リ帰郡致シ
郡中住居リモノハ僅カニ三戸人口七八人ナレ
ハ食糧モ差タル■ナク相凌候故ニ飢饉ノ影響
ニテ堪ヘサル程ノ難儀等無之又凶荒諸国ヨリ
逃レ渡ルモノ壱人モ無之候
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