『松風夷談』は、松前藩第17代藩主崇広が、松前藩の学者蠣崎敏 1に命じて、『松前主水廣時日記』 2の中から、蝦夷地における珍事、奇談、大事件を抜き出してまとめさせた書である。成立は、嘉水、慶応の頃と推定されている 3。
『松風夷談』は、函館市中央図書館、北海道立図書館、北海道立文書館、北海道大学附属図書館等に写本が所蔵されているが、函館市中央図書館本は、星野岳義氏により翻刻されている 4。
ここでは、北海道大学北方資料データベースで公開されている写本データの翻刻を紹介する。
翻刻
松風夷談
氏家直英
松風夷談
目次
一、三上超順和歌及詩
一、藤原正之の源廣年におくる文
一、祥雲院追善之歌
一、安永六年福山城下間数並ニ東西町名家数人別
一、松前東西地名
一、渡党の事
一、西蝦夷地トママヘ領ハボロ砂金産地の事
一、西在熊石村の地名と岩塩の事
一、銭亀沢の橡木の事
一、明和初年松前藩士松井武兵衛熊取の事
一、戸井村岡部館の古蹟と其発掘物の事
一、安永四年四月松前城下立石野に怪しき見る事
一、安永の頃蚊柱村帆柱石崩壊と犬の忠義の事
一、寛政十二年實行寺小僧狐付になること並に若狭
屋宗太郎の事
一、亨和元年西蝦夷地モンベツに怪物顕はるゝ事
一、三河の歌人管江眞澄翁の事
一、明和五年犬大松前奥沢にて主人を助くる事
一、存意(崇廣)
三上超順和歌及ヒ詩 超順 名維文又以直号晩香庵又爰疑楼
おいにたるはゝもわかれのおつしをし鳥
のをしとはなけれともゆる火の炎の家に
小車のめくる月日をいたつらにおくりむか
へんはかなさをなけきこりつゝなけゝれは
世をすてし身のいつしかにいちはのちり
にましらひてけかれもゆかは中々にきた
なからめとたまくしけふたゝひあふをた
のみにていつあふ坂の走井のとくもゆけ
とそゆるされぬことのうれしくかなしくも
くさのまくらのたひ衣心ゆたかにたちれと
もあまるそてのなみたなりけり
こゝろからおもひたちぬるたひなれと
かへりみらるゝ故郷の空
まん延ふたとせといふとしの
やよひの六かの日
晩香庵超順
山家春といふこゝろを
かくれ家のとはれぬかともさくらさく
春はとちてもおかれさりけり
超順
右二首ハ有無齋蛎崎敏所蔵
九月十三夜煮石山楼小集
一宵風雨我何嗟、堂上詩名素駿騧、同誦寛平
盛世徳、共議嘉永却和邪、所期壮士得正斃、不慣
惰夫拝犬豭、知否他年排妖霧、月清六十六州家
大風歌
黒気海南起、天日忽失光、汹濤撼坤軸、
退鷁喬木僵、哭聳随舟滅、鬼火點々彰、
天明十里際、汀沙埋檐檣、貨賄幾百萬、
淪没難度量、妖祥如此酷、豈不悲且傷、
暴風無何歳、豫禦須有方、誰人献大策、
醫我九廻膓、
大風後有感
風濤摧岸舶、餘怒拔盤根、百草渾凋落、
千芳一不存、違乖田畝計、破碎蜂蝶魂、
蕪草独何者、青々更欲繁
憶母
壬戌秋三五、痴雲更水漫、江心漁火暗、
楼上雨聲寒、家遠徒回首、更深猶倚欄、
故園今夜月、誰伴阿嬢看
寄兄仲吾
西風粛颯満江城、天外思君双涙横、古寺尋花
花幾落、孤舟棹月月空明、分離十載家無信、
客舎三秋蟲有情、経巻五千看未了、功名何日
報吾兄、
解纜下米代川
森々杉樹掛華鬘、萬態奇峰碧水環、
為惜吾無坡老筆、扁舟空下七倉山、
雨後登楼看山
棟雨初晴凉意饒、午眠醒處篆香消、起来
欲使雙眸豁、百尺楼頭看遠嶠
源廣年のうしにおくるふみ
藤 原 正 之
源廣年のうしは君よりおゝせことのあ
れはにやこその冬都にのほり三條の大路近
きわたりかも何者西の岸に旅ゐしておは
し賜ふてける常に画を以賜ふてこたひゑ
そかしまのゑひす松前にきて君をおかみ
たいまつりし姿を絵にうつしもてたより
ある人々にみせ賜ふ京にはみつぬかたち
なれといけるもかくはありなむものやいわ
まし動きやせましなとおもふはかりにそあり
けるこれをみまほしとて竜飛とはいふも
更やこと国々よりのなりとゝまりいにける
人々まてたよりをもとめてきぬるにそ皆ゆ
るし賜ふてけり春の空に帰る雁金ならて
は告さらましを雲のうへにしきこえ大宮
人よりもなを傳へして竹のそのふの宮柱
うこきなきよの例しにもやつゐにおゝくて
みかとのミまへにみそなはし賜ふてけるは
画の道のふゐとやは賜わんまたになき事に
こそあんなれ此うしのたひにりへよに云
ふ花衣きつゝ馴にし云とゝあるとことさや
かく唐ふりこのめるはからうたうたひ和歌
の浦はのみひとは国もかきあつめそのくさ
ゝ日毎にしけく沙香山のあさからぬ交り
そおゝかりきまた画をことゝしてあるは山
をしたひあるは水をおもひあらたには
花のもとに心をやりゆふへには月の前にふ
んてをそめて山田のひたふるそ友垣まとゐ
して画かゝぬいとまもなく硯の海のひる日とて
はあらさりけらしあか身も画にすけれハ
とてひともすさめぬふてとりて共にこの道の
み遊ひつるか月日を經つゝところをもかへな
てつとめてひねもすに画かきけるはたのしき
中のうさにもや有なむなといひ出つゝある
時は眞葛か原のわたりへ出うらみもなつの
深みとり松陰に芝居して菓をとりまた
あるときはよし水のもとにあそひたゝへし
水の清らにすめるを硯にくみ入れてはしの
寮のたうとのに登り画に向ひては嵐山の入
相に霞めるさか野の春を見やり南に望
みては淀の河風に眞帆引つれて雲に入る
気しきを詠めこれをなむもとつものにし
てする墨のあはきひしるなといと興ある遊
なりけり折にふれては文に花さく家々畑
荻野皆川龍上宅なとにうしの至りたまん
はからのせまとのふみはいふも更なりあ
るし盃をあけうま酒をすゝめ海川のはた
物野なるあま菜からな珎らなるうつわも
のをしまつきにうちならへあるは詩作りて
うしをうち古ことをかたり今様をうた
はせなといつれの家にしもいとねもころに
そ有けるまたやんことなきかたのおゝん
いましところたよりとめもておかみつある日
はむらさき野のゆかりをたつね大とこの
寺に入ある口は妙なき心寺をたよりし
つゝそここゝ名のみ聞えしかたをなむと
め行もあかりたる世の名におへる画を見ま
つしとてうしとともにうかれありきける
と見かふみれとも見あかてそかために
時をうしなひつそこにおり居て画をうつ
しなむとすれとも波のうき草かきつく
しことのかたけれは目に心にとゝめつ猶と
かくして口数そ増り侍りにけりとくなん
有けるにそこにもくれて東山に霞たち
西の河に氷なかれて仁和寺の花ちり宇治
の山吹も過ぬかもの糺の夏の森には木立も
しけることのはをかさね屋の戸に聲もら
し行ほとゝきす竹の林に音を入るうくひ
す氷室の氷たてまつる頃よりうしはさぬ
きの国へくたり金毘羅へ参り詣賜はんに
いきときこえ賜ふいてや旅衣共におもえた
ゝんとすれと世の業の障りありてふゐう
しなひにたり夏もはやなかは過てうしのか
へさはみな月の中空にもなりなむ者はして
ふなれと別にのそみ送りてむまのはなむけ
にうたふ
家つとに名ところかたれ須磨明石
まし根の浪のたちかへりきて
それゆいくはも有ふる軒の妻にかへりまつま
まのふと遠く波のよるひるうちものかたら
ひにけることなむおもひつゝけてさひしさ
のあまり
心あらは人まつやとのをひしさを
なれもきてとへやまほとゝきす
うしはおしてるやなにはの浦に舩もよ
ひして西の海辺をこかれ行よつの国のさぬ
きにいたり神にねきことしておもひを
叶へ都のかたに返り賜わんとてしらまのか
ち路足引のやまと嶋てふ淡路かた逢
けくみつゝ明石の瀬戸のあけくれ須磨の関
屋も目と目はとゝめもやらてうたかたのあわ
ち繪嶋も名のみして雨の日は名には隠ぬ
ものにそ有けるとよぬる田みのゝ嶋なと
海山かけて古き名所之すてもやり賜はす
画にとゝめそのけしきかい付て帰り賜ふそ
いとはへあるはさなめりまた都にかへりたま
へとこゝもなを旅のやとりにしていく程なく
みちのく松まへかえりたち玉はむとそのよそ
ほひ事に日をかさね賜ふかくていつまてか
同し都のすまゐにしむもあらされは初秋の
中空にはゑりをわかちたち出賜ふけるにそ
老か身はけふ別てはたまくしけふたゝひをい
めしたいまつらそことはかた糸のかたけれは
心は朝貌の日陰にはつれ胸は秋露のたちふ
さかりぬまためくり逢んまてのかたみにや見舞
あるはひむしろのよにやせましとてまた筆と
りあえす硯にむかゐかたみに繪か
きつゝとりかはし盃あけてよるはすからに語り
明しけるにミしかよのならひはつかあまりの
月いとあかく山の端に残れり
いつまても見れはかたみはころも手の
露にやとりて有明の月
はや秋ともなりて今そ別れの袖にをく露
さへはらひかねつゝまた馬のはなむけすと
て
まつそかし契るいく秋絶せすも
便りをきくの露のたまつさ
ことしの春夏はいかなるすくせよりのゑに
しにやよるとなくひるとなくうしのおしま
つきのもとに居てになくましらひしものを今
別れんことのかなしさにたれもたれも涙ひかたか
れはこれかれうちこそりわかれのうたにのそ
ミ詩に作り歌にうたひて送り侍りぬこの
あらましことをふちハら正之やかて筆をと
りしるしそたてまつるときは寛政辛亥のと
し秋七月中の三日
同人におくる文
こその霜ふり月ミちのく松前をはなれ都に
なん登り賜ふその旅よそひのたけくいさま
しきをことほきてはゝそはのはゝのおゝん別れ
に盃あけ賜ひつゝ
別れては旅に日かすをふる雪のとけてかた
らむ春を社まてと聞へ賜ひまち酒酌賜
はん日まてはその袂のかわき侍らて御心のう
ちいといとうなやミ賜ふらむよけにや足曳の
山とりも高く千豆の海よりも深きおゝん恵
ミの露は月にふるともかはく時やなからん
光りのかけのうつりゆくこと矢よりもはやく
今とし初秋の中空にはことこなう都を
たちくる雁かねと行かふ旅になん帰り向ひ
賜ふめれは年比見馴れたまひしふるさ
との月も長月十まりみかの夜のうたけに
はにきはゝしく諸ともに詠め賜ふにそ
御うれしさは限りもあらすなん
吹風のいまははらはむなてしこに
かけしおもひのことの葉のつゆ
おゝんちかきはいふも更なり御やからうか
らの限りつとひて唐やまとの歌もて千世
やちよをとれへていはひ賜ふらめやつかれ
も猶こゝより半山も千重にたちかさねて
そのむしろにはつらなり侍らすとも唯いつ
まても友垣をしとふ心はなとか隔へき今よりい
つまてもうしのかい賜へる菊の繪をとり出て
うつろはぬきくを千とせの文と見舞
秋いくかえり霜はをくとも
詠めあかなくこの花の露のしたゝりに老をや
しなひにつひふりせぬちとせの秋かけてい
ひによはせたまひねかし藤原正之おかミ
しるす
祥雲院殿三十三回忌追善
弥生中の九日故殿の三十餘り三とせの仏事
いとなみ賜にける時に明なはおほん忌日なり
ける夜とゝに念佛しはん然りて南無釈迦
牟尼佛の御名を冠にかふりて四郎五郎とゝ
もに花の歌九首よみてなきおほんかけに手
向奉る
な 春待花 文子
なへて世にまち見ん花のことならは
むかしの春はかりきなまし
む 花如雪 廣文
むかし誰高根の雪とめてそめて
いまもおほめく花の白妙
し 雨中花 廣年
しほらしよ雨にたもとをそほつとも
花の香残る春の衣手
や 関路花 文子
やすらへて越やらぬらん旅人の
関のこなたの花の盛りに
か 山家花 廣文
風なよきよ山桜戸の明くれも
はなにまたなく花の友かき
む 夕惜花 廣年
むは玉の闇にもしろき花なから
おしむならひや夕くれの空
に 花将散 文子
庭の面にみなれし花もかきりありて
うつろう色を見るそおしけれ
ふ 曙落花 廣文
ふく風に木々の梢をおちこちの
花よりしらむ曙のそら
つ 寄花夢 文子
つみふかく見し世の花をおもひ寝の
夢路へたつるいにしへの春
弥生中の九日故殿の三十餘り三とせの佛
事を 国の守よりいとなませ賜ふける
時に春の懐旧てふことを人々にもておなし心
をよみて奉る 文子
いにしへの跡とふやとは鶯の
聲も御法のふかにやは聞
弥生中の九日故殿のミそしあまり三とせ
の佛事をいとなみ賜ふける時によみて
奉る長歌
思はすも 経にける年を かそふれは
小蝶の春の 夢なれや 花の色香は
かわらねと めてにし君の おもかけは
いや遠さかる うきことを かたらふ人も
憂むしろ もゆる思ひを 身にたゝへ
なけきあまれと せんすへも なみたにたゆたふ
うらの海士の 舟なかしたる 心ちして
よらんかたなき ひんなさも 秋のこはきに
置露の きへなはさそな いはけなく
たつきもあらし 吹ことに 草のかけにも
うしろめたく 蓮の花の おましまの
ほたしにもやと はり弓の こゝろつよくも
二葉より おふしたてたる 松かゝえの
木たかきかけそ うれしけれ さて幾とせか
霜雪の をのかかきりに ふりつもり
五ツの六ツに 三ツの春 やよひのけふの
手向なる 御法の聲の 尊さに
花のうてなを いや忍ふなり 文子
うつゝとも おもはす過し夢もまた
さめなてけふの御法にそあふ
右の追善の和歌芝山宰相持豊卿に
御覧に入れけれは
手向つる言葉の露は極楽の
花のうてなに玉をなすらし
○安永六丁酉年福山城下間数並東西町名家数人
別
城下東西十九町十五間 博知石不動川ヨリ大泊川家端マテ浜通斗リノ間数ナリ
街名大松前町、小松前町、枝ケ崎町、泊川町、唐津内
町、博知石町、湯殿沢町、西館町、端立町、蔵町、横町
今町、唐津内沢町、荒町、新町、河原町、袋町、裏
町、東上町、東横一本橋町、寺町、愛宕町、不動川
町、白水川町、西上町、東片町、東裏町、大泊川町、神
明町、東中町、東町、小館町、唐津奥町、惣社町、
足軽町
戸籍諸士扶持人家数百七十軒男八百六十五人女六
百六十二人都合千五百二十七人寺院十七ケ寺寺僧
八十一人山伏二人俗男三十六人女十二人僧俗百三十一
人社家七軒社人十二人俗男十二人女十五人合三十九
人民家千二百五十四軒男二千三百六十二人女千九
百四十六人都合三千三百〇八人
軒数都合千四百三十四軒人別都合五千〇〇六人
東郷寺院七ケ寺僧二十六人俗男二十五人女人合
五十四人社家十軒社人二十四人俗男十五人女三十二
人合七十一人民家二千〇〇三軒男五千二百四十六人
女四千七百八十四人合一万〇〇三十人都合一万百五
十五人軒数二千二〇軒
西郷侍家二軒男七人女二人合九人寺院十五ケ寺
僧三十一人俗男十七人女三人合計五十八人社家四軒
社十一人俗男三人女八人合二十四人
民家二千九百四十七軒男五千七百二十九人女四千五
百七十四人合一万〇三百九十二人都合一万〇四百七十二
人軒数二千九百六拾八軒
右三ケ所総人数二万五千六百三十三人軒数六千四
百二十二軒
右安永六年丁酉冬人別帳之写也
○東部 志濃利 宇須岸 函館ノ在名 箱館ヨリ海岸石崎マテ
ヲ宇賀ノ浜トイフ右書庭訓往来ニイフ宇賀昆布ハコノ海中ヨリ採取セシモノ也 脇本 穏内 右ノ名今吉岡
覃部 今及部ニ作ル誤リ
西部 原口 比石 石崎古名 上国花澤 河南ニアリ
按スルニ信廣ノ旧住セセシ処ナリ 與倉前 今云ユクラマエ 近藤
○始祖 信廣ヲイフ ハ享徳三年甲戌秋八月始メテ松前
二来リ四年ニシテ大勲功ヲ立ラレタリ古方俗ノ
所謂渡党ハ即チ左ノ諸館主ヲ云フナリ其人
々小林太郎左衛門良景、河野加賀政道、佐
藤三郎左衛門季則、南條治部季継、薦槌
甲斐季直、今泉刑部季友、下国山城定季
相原周防政胤、近藤四郎右衛門季常、岡部
六郎左衛門季澄、厚谷右近重政、茂別八郎
式部家政 古系譜中作治部誤ナリ 蛎崎修理季繁等也
蛎崎伴茂按スルニ 永正十年夏六月於大館相原季胤、
村上政儀等戦死ス村上氏並明石運心入道ハ右
党ノ内ニ無之歟訝シ
○西蝦夷地トママへ領ハボロ昔時砂金ハボロ川三十間
斗アリ出シ所ナリ
○松前城下ヨリ西在熊石村ト云フアリ古ハ雲石ト
ヒシヨシ村老ノ語リヌ此村西町端ニ白雲ノ凝リタル
如キ石アリ此石ノ邊ニ當村鎮主ノ小社アリイツ
ノ頃ノ唱ヒ誤リ今ハ熊石村ト云フ居村ト蝦夷地ノ
境ナル故ニ領主ヨリ口留番所ヲ建テアリ此村ヨリ
三里山奥ニ平田内ト云フ温泉アリ常ニ湯治ノ
湯ヨリ三丁餘山奥ノ方ニ瓶ノ湯トテ川端ニ湯アリ
此ノ瓶ノ湯ノ傍ニ塩ノ出ル穴アリ深カラス塩気凝
リテ赤岩ノ如ク成リタル中ニ塩アリ色純白ニシ
テ焼塩ノ如シアチハヒ美ニシテ尤モヨキ塩ナリ
○箱館ヨリ二里東浜邊ニ銭亀澤ト云フアリ此村ヨ
リ七、八丁山手ニ長阪ト云フアリ此阪下ニ橡ノ木ノ
連理木アリ両木共ニ三抱程ノ木ナリ両木ノ間ハ五、
六間モアルベシ中ノ貫キタル枝ハイツレヨリサシタ
ル共見得ズ中ノ枝モ五、六尺回リ斗リアリ此枝ハ下ヲ
予立テ試ミシニ予カ頭ヨリ扇子一本程高キナリ
此木ノ有ル沢ヲ塩泊ト云フカヽル名木モ草深キ邊
鄙ニシテ見ル人ハモトヨリ名ヲ識ル人モ稀ナリ
○明和初年ノコトナリシカ松前西在山野ニ熊ノ出テ在
々百姓ノ放チ置キシ馬ヲ数多取リ喰ヒシコトア
リ在々村方名主トモヨリ町奉行所へ訴へケル
故御家侍ノ内へ申付ラレ鉄砲ニテ打獲ラレ候
コトハ年々ノ様ナリ松前ニテハ田地無キ故畑へハ垣
ヲシテ置コトナリ夫故雑駄馬ヲ山野ニ放チオクコ
トナリ此時松井茂兵衛申付ラレ赴キタリシカ頃シモ
秋ノ半ノコトナレハ山ノ景色モヨク四方ヲ詠メテ熊
ノ居シトモ知ラス煙草ヲ吹キナカラ鉄砲ヲカタケ山
ノ折リ回リタル道ヲ歩行ナカラ煙管ヲ鉄砲ノ台尻ヘ
カチゝト叩クト此音ニヤ驚キケン道ノ蔭ヨリ大ノ
熊一疋飛出シワント一聲サケンテ眞一文字ニ茂兵
衛ニ飛懸ル茂兵衛鉄砲投捨飛違ヒ思ハス両
耳ヲトラヘテ彼熊ニマタカリ谷底ヘ下リテ見レ
脇差ハ抜ケテ首筋ヘ刺通シテ有ケル故熊ハ
其儘死タリ茂兵衛熊ノ死シタルヲ見テ脇差
ニテ刺シタルコトヲ覚ヘタリトソ其節脇差ヲ
抜キタルトモ刺通シタルコトモ覚エサリシカ脇
差ノ柄ヲ握リタリシ指ハ漸ク開キシトソ予ニ
中書院番所ニテ語リヌ此序に語リ置ヘシ熊ヲ
打ニ出ルナラバ熊ハ大ナル物故鉄砲ヲ差付ルト見当
ハ早速ニ付クモノナリ夫故筒先ノ見當斗リ見テ
手前ノ見当ヲ見合ハサル故玉越シテ当ラザルモノ
ナリ此故ニ熊打損シタル玉ニ落玉ハナキモノナリ
猛シキ獣ナル故打人気登リ心セキテ打故見當
ヲ不見合シテ打ガ故ナリ荒熊ヲ打タント思ハヽ
両見當タニ見合スレハ外レハナキモノナリ数十疋ヲ
打シニ終ニ打外シタルコトナシ此心得ヲ忘ルヘカラ
スト語タリヌ茂兵衛カ予カ親類ナルカ故カク話シ
タルナリ右異説奇談聞書氏家直英誌通称
唯左衛門手録抜書
○文政四年箱館ノ東ニトイト云フ処ニテ古銭堀出
シ洗ヒテミガキ候処文字分リ大観通宝開元永
楽洪武銭ノヨシ依テ右蝦夷地住居ノモノヨリ公儀
ヘ申立ニ付御調子コレアリ候処凡六十二貫餘有
之候由其外水晶朱砂ノ類百品餘モ堀出候ヨシ
右トイト申処ニ岡部澗ト申小舟ノカヽリノ処コ
レアリ陸ニ岡部館トイフ処コレアリ右ノ処ニ石碑
アリ公邊御役人中ヨリ右石碑石摺ニ申付ラレ
摺候ヘ共文字聢ト相分リ申サズ右石摺ノ内ニ
岡部六弥太六代孫岡部六左衛門尉季澄ト
云名ノ所斗リ顕然ト分リ候由昔ヨリ此邊ノ
沢ニ折節光リ物度々有之 5其所ノ人ニテモ近辺
ヘ行キ見ルコト昔ヨリ禁シ候由右ノ邊ヨリ石櫃
六尺四方有之品一個堀出シ候右ノ内ハ見申サズ
由内ニハ如何ナルモノ有之候ヤ外ニ沙汰之ナリ公邊
御評議次第被仰出可有之由松前ヨリ申来
依テ記置
○安永四年四月末ノ頃ト覚ヘシ予カ十歳ノコト
ナリシニ実父高橋又右衛門ト云フノ下女タツ下男
名ヲ忘レタリ並別家ノ舎弟松浦兵蔵ト云フノ
下女イハ外ニ博知石町ノ女ナド五、六人ツレニテ松
前城下ヨリ西ノ立石野藤巻石ト云へル野菜蕗芹
ナト摘ミニ赴キシニ昼過ノコトナリシ藤巻石ノ
上ニ一人ハ男トモ云フカタチノ人立テ有リケル常ノ人
ヨリハ二丈モ高キ人ノ由一人ハ女トモカタチノ人ツク
ハイテ居ケル様ニ見エシトソアマリセイ高キ人ユヘ
フシキニ此二人ノ人立タルモツクハイタルモ其儘動
キモヤラズ草ノ上ヲシユリ台ト云フ山ノ方飛行
夫ヨリ山ノ麓傳へ以前ノ形ソノマゝニテツクシナイト云
フ西ノ方ヘ飛行ケルアレヨアレヨト斗リ申連立参ケ
ル女トモ身毛立ツ心地シテ摘取ケル野菜ハサテ
オキ昼飯ヲモ入レタル物マテ皆捨テヽ早々逃ケ
帰リシトナリ松浦氏ノ家ハ高橋氏ノ家ヨリ西ナル
ユヘ皆立寄リシニ顔色青ク常ノ如クナラザリシ
ユヘ松浦氏ノ妻ナル人事ノ次第ヲ尋ネシニ始終ノ
コトヲ語リケルニ依テ高橋氏ノ下女下男ヘ送リノ
人ヲ添テツカハシケル此事ヲ両親並祖父ノ尋ネシ
テ予モ傍ニ居テ聞キシナリ祖父ハ其頃七十餘ナリ
シカ山野ニ出テ怪ヲ見気分ノアシキニ五月節句ノ
粽ハ宜シキモノナリ気持スコヤカニナリ用フベシト
テ笹ノ粽ノ古キヲ取リ出シテ煎シテノマシメタリ
○安永五六年ノ頃カト覚エシ松前ヨリ二十三里餘西
在海邊ニ蚊柱村ト云フアリ春ハ百姓網シテ鯡
取ルヲ業トスルナリ松前ヨリ西在々ヘ鯡取リニ
行ヲ追鯡ト云フ其村々ニ追鯡場云テ浜邊ニ
誰々ノ持場ト云フアリ立春ヨリ三十日カ間ヲ百姓自
寒ト云ナラハシ其前廉右ノ鯡場ヘ行テ鯡ノ群
リ来ルヲクキルト云テ待ハ春毎ノナラハシナリ二
月ノ始メ方松前博知石町卜云ヨリ行シ者ノ方ヘ
用事コレアリ同町支配ノ方ニ武兵衛ト云フ者ノ
親類 名ハ逸ス 蚊柱村帆立石トイフ浜邊ニ丸小屋トテ
鯡取ルモノヽ小屋ヲカケ居タリコノ丸小屋棹十二
本上ヲ結ヒテ廣ケ菅若ヲ覆ヒ掛ルナリ右ノ所
ヘ行キ用事相調ヒケルニ日暮ニ成リシ故先今
宵一宿シテ明日帰ルヘクト云ケル故則鞋ヲ脱
キ食事調ヒ寝ケルニ此者松前ヲ出立ノ頃日コロ飼
置ケル白犬追ヒトモ帰ラス詮カタナク連レ行キシニ
外ニテシキリニ吠ヘ後ニハ小屋ノ内ヘ入リテ寝タル
衣モノヲ喰へ吠へケル故是ハ何ソフシキ有ヘキコト
トテ外ヘ追ヒ出セハ帆柱石ノ方ニ向ヘテホへ又内入テ
衣服ヲクハへ吠ケル夜中ナレトモ是ハ定メテ宿ニフシ
キノコトニテモ有之カ又ハ急病人ニテモ有ヘクケレハ急
キ帰ト云ヒケルヲ夜分ナレハ先一宿シテ明日帰ラレ
ヨトタツテ止メケレトモ出立ノ支度シケル犬草鞋ヲ噬
ハへ引ケル故暇乞シテ此小屋ヲ出ルト犬ウレシケニ跡
ノ方へ向ヒテ吠ヘテハ先ニ立吠テハ先ニ立シケル故夜分
乍ラ濱邊ヲ急キ凡五六町モ過ルトフシキヤ数十丈
高キ帆柱石忽クツレ倒レテ今迄宿シ小屋ミチ
ンナリ一人モ助カルモノナシ跡フリカヘリシバシフシ
オガミ又犬ヲモオカミシトナリ急テ松前ヘ帰リケリ
日ハ忘レタリ此者ノ帰リシ翌日武兵衛ト云フ予カ
実家高橋又右衛門家来筋ノモノユへ相越シ物
語ケルヲ予モ十四五歳ノ頃故能ク承リシコト也
○寛政十二庚申年冬松前西在江差村トイフア
リ仝村日蓮宗法華寺ノ弟子小僧仝町ノ或女
子ニ日頃シタハレシ事ヲウルサシトテ東在箱館村
仝宗ノ実行寺ヘ逃ケ来リシニ風ト狐ノ付テ口ハ
シリケル実行寺上人気毒ノコトニ思ヒ色々祈禱
等シケレトモ一向其シルシモナク日々ニ口ハシリケル我
ハ江差村笹山直満トイフ狐ナリ人毎ニ直満ノ満
ノ字ヲ瞞ノ文字ニ書誤リシナト云ヒケルトナリ日
毎ニ狂気ノ様ニ成リケル夫ヨリ又日蓮宗ニ名高
キ僧ナリナト云ヒケル故何ト云如何ナル出家ニ此小僧ヲ
ナヤマシ給フヤ殊ニ此寺ハ御覧ノ通リ檀越モ少ナク
下男モナキ無人ノ寺ニテ此頃小僧カクノ如クニ相成
行キテヨリ本堂佛殿ノ掃除モ心ニ任セス物不自由
ニ成行候マヽ早々立去リ賜ハレト上人ノ懇ニ頼ミ申ケ
レハ我ハ日蓮宗ニテ名ヲシラレタル妙喜トイフ
僧ナリ我佛學ニ慢シテ思ハサリキ天狗トナレリ此
小僧ノ体ヲ暫ラクカリテ我存念ヲ語ラント思フ
ナリ然レトモ上人ノ申処モ余義ナキ事ナレハ朝
ヨリ昼過迄ハ上人ノ用事ヲ調ヒ支舞暮ヨリ
夜マテ小僧ノヒマアキタルセツ体ヲカリ申サン直満モ同
様二致サレト口バシリケルカ其翌日ヨリ朝昼マテ小僧
平日ノ心持トナリケル暮頃ヨリ大鳥ノ羽音寺ノ上ニ
聞ユルトヒトシク妙喜移リ佛経ヨリ僧法ノコトヲ口
ハシリケルニ中々小僧ノ知ルベキ事ニアラザル事ドモ
ヲ語リケルトナリ直満ノ移リ候節ハ神道ノ事ト
モヲクチハシリケリトソ或者神前ヘ備ヘ候神酒并
人々心願ノ事ヲ尋ネシニ何処ナル遠国ニテモ信心ヲ
致ス人ノ備へ物喰スルトニハアラサレトモ備ヘシト云フコト
ハ知レルナリ信心ニ祈ルコトモ其言ハ聞へ其祈ル願ヲ
叶ハセンコトヲノミ朝暮心ニ不叶間ハ思フトソ云ヒケル
トナン妙喜ノ移リシトキハ経文ノコト委シク語リケレ
トモ実行寺上人ハ僧道不行届ノ上人故後々ハ其コ
トニテモ云哉ト隠レケルトソ去年ヨリ箱館ハ御用地
相成ケル故公邊邊御役人ノ聞モ如何ト檀越ノ人々モ
迷惑ニ思ヒケレトモ其事次第ニ人口ニ高ク公邊同
心モ或夜詰ラレケルトソ餘リ不思議ノ事故法華
ノ題目ヲ書カセケルニ妙喜ノ移リシトキカヽセケルト直満ノ
移リタルトキ書セケルト又双方ノハナレタルトキ小僧ノ
正心ノトキ書キタル題目若狭屋宗太郎トイフモノ
所持シケルヲ享和元年五月中予箱館奉行所ヨ
リ御朱印写ノ制札請取トシテ罷越ケル節見セタ
ルニ直満ノ書キタル題目ノ手跡ハ如何ニモ美クシクツ
ヤノアル見事ノ手跡ナリ妙喜ノ移リシ時筆達者
ニテ如何ニモ位アリテ名アル出家トモ云フ可キ手跡
ト見ヘタリ花押ナト何ト云フ文字ナルヤ予不文字ニ
シテ読ムコトヲ得ス小僧正心ノトキ書キタル題目ハ一
向ノ悪筆ニテ漸ク手習書始メルト云フ様ナル手
跡ナリ宗太郎秘シテ之ヲ尊ミ寶トシテ神前ニ
綿ヲ以テ包ミ納メ置ケルヲ予ニ取リ出シテ見セタ
リコノ宗太郎ト云フハ名字ヲ荒木ト云フ舩問屋
ナリ若狭屋ト云フヨリ荒木ト云ヒハ小供迄モ知ル日
蓮宗ニカタクナト云フ程ノ者ナリ仝人妻ハ同藩士牧
村忠左衛門ノ娘ニテ藩中知ラサルモノナシ
○享和元年冬ヨリ春マテ北蝦夷地シヤリト云フ所
飢饉ニテ蝦夷人公邊御用地東蝦夷地メナシ子モロ
邊へ立越候ヲ公邊役人中蝦夷地詰合ノ方介抱
有之旨箱館奉行所ヨリ松前ヘ達有之右蝦夷
人請取方トシテ今年五月予カ舎弟高橋壮四
郎寛光函館ヘ赴キ仝所奉行所ヨリノ下知ヲ請ケ
夫ヨリ東蝦夷地ヲ経北地シヤリヘ相越ケル帰郷ノ
節西蝦夷地モンベツノ内浜辺数里ノ長沼之レアリ処
八月仝人通リシニ沼ヨリ浜辺方又山ノ方ニモ蝦夷人ニ
似タル形ノ人数多見ヘケルニソ此邊ハ蝦夷人モ住セス
常ニ蝦夷人モ山ヘモ行キ不通所ナルニ何業ノタメ
コヽ二来リ居シヤト見ル内ニ此人浜邊ヨリ彼沼ヲシ
ツカニ飛カ如ク水上ヲ歩ミケル又山ノ方ニ見へシ人モ
草木ノ上ヲ地上ヲ歩ムカ如クニ山ニ入リシトソ頭ハ
遠目ニハ蝦夷ノ如ク髪ヲカフロノ如クセシ様ニ見ヘ
衣類ハ遠方ノ事故シカト分カラサレトモ色合ハ
花色ニ見ヘケル是此島ノ山神ノアルト云フコト
年老タル人ノ常ニ語リシヲ聞置ケル故召連レ
タル若党槍持ニイタルマテシハラクノ中稽首シテ
慎ヘシト申付慎テ須臾在ケレトモ夫ヨリ形見エス
故道ノ傍ニ有ケル大木ノ流木何時ノ波ニカ打上ケ
テ陸ニ在ケルヲ腰刀ヲ以テ押ケツリ享和元年八
月高橋壮四郎寛光此処ヲ通リシニ山神顕ハ
レシヲ見ヌ以来此処ヲ通行ノ者慎テ可相通
旨書付ヌト帰宿ノ後予ニ語リヌ仝人ハ藩中
ニ皆人ノ知ル所ノ強勢ノ気質偽リナト云フ生得ニ
之無キモノナリ
○古今著聞集ニ奥州安倍頼時蝦夷カ島ニ渡リ
テ胡人ヲ見シニ海ノ如キ大河ヲ馬上ニテ水上ヲ通
リシヲ物蔭ヨリウカヾヒ見シトノ條アルモ今此
話ニ似タリ西蝦夷地モンベツノ沼ハ海ノ如ク大河ノ如
シ往昔頼時モ此地ニ来リシヤ松前ニテ浜邊ニ在
ケル沼ヲ溏ト云フ
○天明八年月日ハ忘レタリ三河国ヨリ白井英治
秀雄ト云ヒケル人松前ヘ渡リヌ當港ハ旅人ヲ
改メ猥リニ入ルコトヲ免サス是蝦夷人ニ他ヨリ
来レルモノヲナレサセザル国禁ナリ是御代々御
朱印ニ領主ニ届ケス蝦夷人ト交易ヲ不赦ノ大禁ナ
リ此故ニ旅人ヲ沖ノ口番所ト云ヒテ改ル所ナリ秀雄
モ稼方商人ト見ヘサル故先舩問屋ヘ揚ケ置津
軽地へ出帆ノ舩アラハ帰国スヘシト沖ノ口番所ヨリ申
含メラレシトゾ秀雄ハ羽州秋田ノ知ル人ヨリ松前
ニ住居シケル沢田利八ト云フ者ノ方へ沢大夫ト云フ
添状ヲモラヘ来リシ故仝人ノ方ニ居ケル利八ハ侍
醫吉田直江一元ト云フ日頃心易出入ケル故秀雄
ヨミケル和歌ヲ吉田氏ノ方ヘ持行キ秀雄松前ニ
逗留ノ事モ叶ハサルヨリ近キウチ帰帆スヘシヨミ
歌モ不便ノコトナリトテ見セケルニ吉田氏開キ見
シニ思ヒヤレタヨリモ波ノ捨小舟沖ニタユタフ心
ツクシヲトアリケレハ吉田氏深クコレヲ感シ或
夜道廣公ノ御伽トシテ相詰ケル節此歌ノコト
申出シ沖口番所ヨリ帰国申付ラレシ趣ヲ御話ニ
申セシカハ道廣公ニモカンジ思召シ其秀雄ト申
者心ノマヽ松前ニ逗留申付ヘクト仰渡サレ其後
御継母自正院文子ト云ニモ折々召出シ和歌ノ物
語リヲ承ルヘシトソ仰付ラレケル是ヨリ秀雄藩
中和歌ノ會二モ出ル様成リタリ年經テ寛政
四年マテ松前ニ逗留シテ帰リヌ後羽州秋田ニ居
リテ名ニ憚ルコトノ有リケルトテ菅江真澄ト
改メケル予梁川へ引越シテ後文化十四年ニ
至リ秋田ヨリ文通アリヌ
○明和五年四月五日此日空晴レ長閑ナル景色故
四月八日佛ヘ備ヘノ餅ノヨモギヲ摘ムニ野ニ出
ルモアリ又ハ山々ヘゼンマイヲ折ニ出ルモ多カリケ
ルニ昼ヨリ空カキ曇リテ大風大霰フリ寒キ寒中ノ
如クニナリケル故近山ヘ行キシ者ハ疾ク帰リケレトモ
山深ク入リシモノハ皆々ココヘ人々数多死シケ
ル中ニ蔵町鍛冶由兵エトコノ躮安五郎大松前
沢奥ノ方ヘ行キシニ常ニ飼置シ白犬ヲ連レ行キ
大風霰俄ニ寒天ニ成シコト故家ニ帰ラントスル
道ニテコゞヘ倒レ臥シケル白犬襟元ヲクハヘ引立
ケル故起キ上リテハ倒レ度毎ニ吠立引起シケルユヘ
神明沢口マテ犬ニ引立ラレ来リシ処親由兵衛
迎ニ来リ背負テ家ニ帰リ中略此日多人数凍死
シ上ヨリ申付ラレ町中ヨリ人足ヲ出シ山々ヘ遣ハサ
レケル船問屋十三軒大町人村山傳兵衛ヨリハ下
男残ラス差出ケル此大風雪ヲ東善坊ト云フ傳
フ何レノ出家修験者山伏ト云フヲ知ラス
右数條氏家唯左衛門手録ヨリ抜書ス
〇當家風之第一流弊ト云ハ何之頃ヨリ起ヤ臣
下ノ者ノ不才不能ヲ撰ハス其職ニ任ス間敷キ官
役ヲ申付ルモ其者数年ノ勤ト申カ又ハ重官ノ
負贔ニ依テ其者ヲ推挙シ或ハ貧窮ナルヲ助ケ
ン為ニアルマジキ役ニ登ル等ノ事間々アルカ故ニ
年ヲ越月ヲ重テ連々役々ノ者相増テ何ノ用ヲ
モ辨セサル上ニ剰ヘ世ノ笑ヲ取リ偶々心胆ヲ砕テ
歎キ悲者ハ却テ貶シ口ヲ閉テ頭ヲ痛マシムルモ
ノハ又少キ非ス此故ニ商家ノモノ大小ノ願事或ハ
詞詔訴詔アレハ官管或ハ奉行ヘ賄賂ヲツカヒ
其事ノ判決ヲ頼ムカ故ニ邪ノ裁断アリ又外事モ
是二比スルコト多シ人々真ニ覆蔵シ有テモ何ノ顕レ
非ノ理アランヤ是等ノ弊ハ前々ヨリ出入ナソト唱テ
常二酒食ヲ共ニシ世ノ妄説ヲ吐シ笑語シテ心ヲ
ナクサメ年月ヲ送クルノ故ニ是ヲ防クノ術ナク其
正シカラサルノ道発起ススルコト衆人ノ指ス処実
ニ厳ナリ又衣服ヲ以テ身ノ軽重ヲ飾リヲヽウノ
悪弊風モ先シテ重官ヨリ疎服ヲ着用シ人々ノ
手本トナサハ令セスシテモ人其分ヲ守ランコト速
ニ行ハレン何ソ美服ヲ以テスルノ事アランヤ熟考
先君モ是等ヲ歎カセタモウノ故ニ寝食ヲ安シ
タマハス改革ノ令ヲ出シタマウナラン其事万分一
ニモイタラセサルノ時病ヲ以テ位ヲ辞シタマウコト
誠ニ家ノ不幸歎キテモ限有ンヤ今我等其
位ヲツキ其政ヲトル誠ニ戦々競々トシテイツカ心
ヲ安センヤ政ヲ執ルノ後ハ邊警ノ要務連々
起リ是ニ加フルニ函館ノ地ハ時勢ニ依ルトイヘト
モ廟堂官吏ヲ遣テ是ヲ守他エ対シテ恥ルコト
是ヨリ大ナルハナシ今上下発憤シテ此ニ正令ヲ行
ヒ粉骨碎身シテ弊風ヲ洗ヒ官ニ當ル之者ヲ
抜擢シ任ニ非サルノ者ヲ退ケ衆目ヲ覚サセテ是
ヲ行ヒ成サハ誠ニ當家ノ幸是ニ過サルアランヤ
依テ末ニ一二ノ條ヲ顕ハシテ此意ヲ述フ能ク従
来ノ政ヲ考ヒ述処ノ意ヲ以テ其答ヲ待ツ
老臣タル者ハ常ニ能ク主君ヲ補佐シテ能ク其
徳ヲ明ニシ能其過チヲ補ヒ徳澤ハ萬民ニ及
スノ術ヲ考ヘ夫吏ハ不正ヲ糺シ當ラサル道ヲ改
メ厳然トシテ賞罰ヲ正クシ身ヲ重シ礼ヲ恭
シ専ニ負贔偏頗ヲ慎ムハ誠ニ職ノ根元タル
ナリ然ルヲ當家風ニシテ古ヨリ仕来リトハ申乍
ラ事大小ニ限ラス總テ重官ヨリ是ヲ指揮シ行
フノ故ニ任役ノ者之勤功モ見エス見エサルトキハ又
何ソ粉骨碎身シテ勤ムル者アラン多クハ只其役
ヲハナレスシテ今日々之凌ヲナスノ術ヲハカリテ
勤ムル者ナキトモイヘス是等ヲ改ムニモ重官ノ
威ヲ立テスシテハ事ヲナラサルナリ又威薄ウシテ
ハ何ソ人服セン是迄ノ如姿ニテハ役威モ薄シ故ニ
人モ服セサル多シ
役々ニ召使フ者ハ能ク其人ヲ選ヒ又能ク其レ々レノ
役ニ任シテ用ノ辨スルヲ以テ使フナレハ其者其役ノ
事ヲ決断シ行テ後主君重役ノ耳ヘ入ルベキ事
ハ入事又大イナルニ至リテハ重官ヘモ談シ衆評ヲ
得テ行フ事モ有ヘシ役々ノモノ不正ノ行ヒヲナシ
偏頗ノ事有ル時ハ其黒白ヲ正シテ使フハ順道ナ
ナリ然ヲ是迄ハ事大小トナク總テ伺ヒト唱ヘ重
臣ノ指図ヲ得テ善悪共ニカヽハラス是ヲ以テ行
ハ誠ニ役ヲ勤ムルトイフ道ナク三歳童児役ニ坐
ストモ何ノ難キコト有ン
臣下タル者常ニ寝食ヲ忘トモ豈君ニハ忠盡サ
ン事ヲ思ヒ親ニハ孝ヲ竭サン事ヲ思フハ石火之
中モ忘レサランヤ必ス心ヲ尽シ忠孝之道ヲ守ン
然人情一ナラス又処モ有ニ依テ考ルニ先役々ノ
者衆多ナルトキハ事常ニ姑息ニ流レ却テ諸
用ヲ辨セサルノ上ニ正シカラサル元ニシテ士風モ之ヨ
リ薄クナランヤ
文甚夕拙ナシ讀者辞ヲ以テ我意ヲ害スル
勿レ
正月 日 崇 廣
老臣共エ
- 蠣崎敏は、蠣崎伴茂の実子。新藤透「『新羅之記録』書誌解題稿」情報メディア研究第3巻第1号,p.6(2023-12-23(土) 22:20:08アクセス)↩
- 『新北海道史 第7巻 史料1」pp.203-230所収。「村上系松前家系譜によれば、三十二巻よりなるといわれるこの松前主水廣時日記は、現在元禄五年の部分に当る一巻より見出されていないが、藩政の状態が具体的に記述されている点で、重要な史料である。」p.203↩
- 戸井町史(2023-12-23(土) 08:50:09アクセス)↩
- 星野岳義「函館市中央図書館所蔵『松風夷談』の解説と翻刻」信濃史学会編『信濃[第3次]』第74巻第6号,2022年,pp.741-757↩
- 「光リ物」について、白山友正「蝦夷地戸井館(岡部館)私考」(『地方史研究』18(6),1968年,p.40)では「光るものは恐らく、露頭の砂金と思われるし、現在、戸井川の上流に金堀沢があるが、往古この沢でアイヌが金を採集し、その黄金の光であったかも知れない」としているが、本書に掲載されている他の奇談との関係や、不吉だから「行キ見ルコト昔ヨリ禁」じられていたと考えれば、人魂や火の玉の類のものと考える方が自然ではなかろうか。↩
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