函館市

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宮崎郁雨と影二の歌碑

宮崎郁雨は明治18年(1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年(1906年)に文芸結社苜社ができると、その同人となった。翌40年(1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続け、明治42年(1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年(1962年)に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年(1968年)に函館図書裡会が建立した。砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918年)に函館で創刊された文芸誌 「銀の壺」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年(1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。
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立待岬

この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ。すなわち、ここで魚を捕ろうと立って待つ)に囚むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。近くには石川啄木一族の墓や与謝野寛・晶子の歌碑もある。
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与謝野寛・晶子の歌碑

市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の雅号に由来する図書裡会が、棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年(1931年)に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を立待岬に建立した。撮影:2022年9月11日撮影:...
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豊川稲荷神社

文久年間(1861年~1864年)、付近の繁盛を願って有志が創立したもので、当時この付近は新築島(しんつきしま)と呼ばれていたが、この神社ができてから豊川町と称するようになった。昭和9年(1934年)の大火まで4回類焼しており、現在の神社は昭和15年(1940年)に建てられたもので、海に向いて建っていた当時とは向きが逆である。古くから商売繁盛の神様として多くの人々から崇められ、魚市場や蓬莱町(現宝来町)見番芸妓一同が献納した石灯籠などがそれを物語っている。
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洋式帆船「箱館丸」

安政元年3月の日米和親条約を締結により下田箱館の2港が開港されることとなり、箱館奉行所は、蝦夷地警備及び外国船舶との交渉上、奉行所所属の船舶が必要であるため、箱館での造船を幕府に申請し、許可された。許可を受け、箱館奉行所は、船大工續豊治に造...
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沖之口番所跡

撮影:2022年6月12日撮影:2022年6月12日撮影:2022年6月12日   沖之口番所跡 江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。その...
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ペリー会見所跡

安政元年(1854年)3月、アメリカ海軍提督M.C.ペリーは、幕府との間に日米和親条約を締結し、その直後、5隻の艦船を引きつれて箱館に入港した。ペリーは、この地にあった有力商人山田屋寿兵衛宅で、松前藩家老・松前勘解由らと会見し、市中の調査や、港内測量などを行って箱館を去った。
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大正湯

函館市弥生町の大正湯。創業は大正3年で、現在の建物は昭和2年に建て替えられたものだが、脱衣所は建築当時のままとのこと。函館市景観形成指定建築物となっている。撮影:2021年9月24日撮影:2021年9月24日撮影:2021年9月24日撮影:...
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遺愛学院(旧遺愛女学校)旧宣教師館

撮影:2022年4月2日遺愛学院旧宣教師館、通称ホワイトハウスは、明治41(1908)年、アメリカから来た教師の住まいとして建築家ガーティナー((ジェームズ・ガーディナー(1857~1925)。立教大学校(現・立教大)校長を務めたほか、建築...
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船見坂

港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873年)坂上を船見町と名付け、その町に通じる坂なので「船見坂」と呼んだ。また、称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。戦後、上が校地となり坂は途中までとなった。
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